警察史上最悪な不祥事・恥部・因幡事件

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警察史上最悪な不祥事・恥部・因幡事件

 警察組織史上、最大の恥部であり、表沙汰になった事件である。警察官も人の子では収まらない規格外の行為が息を吸うように罪悪感が麻痺していく。  2002年7月に北海道警察の生活安全特別捜査隊長である因幡義昭警部が覚せい剤取締法違反容疑と銃砲刀剣類所持等取締法違反容疑で逮捕された。  事の発端は、札幌市内で飲食店を経営する渡辺健司の告白だった。  「俺、覚せい剤を持っている。もう、限界だ。助けてくれ」  通報を受けた札幌北署署員が渡辺の店に出向くと渡辺は大人しく所持品検査を受け入れた。結果、微量の覚せい剤所持が認められ、その場で覚せい剤取締法違反の疑いで渡辺は逮捕された。驚かされたの取り調べの時だった。渡辺は、自分の罪を認め、気を静めるために雑談に入った時だった。  「もう、限界だと言ってたが何が限界なんだ」  「警察って、身内には甘いよな」  「そんなことはない」  「じゃ、知ってるか。生活安全特別捜査隊長の因幡が覚せい剤を使用してい   ることを。しかも、自分で使用する以上にもっているぜ」  「ま、まさか。あの因幡隊長が」  「ああ、無理な要求をされ、もう、限界だ。終わらせたい」  因幡は鉄砲の検挙数で成果を上げ、道内では知らない者がいない程の人物だった。  まさかの思いがありながらも、検挙の多さは反社との繋がりを疑われないわけではなかった。  因幡は1976年道警に入り、暴力団捜査に長く携わっていた。1993年警察庁は全国の警察へ銃器摘発を呼び掛けていた。道警は防犯部に銃器対策室を設置し、因幡は旭川中央署から捜査員の一人として配属された。  銃器対策室は、1990年の長崎市長の銃撃事件、自民党の副総裁だった金丸信が狙撃されたこともあり、警察庁の肝いりで始められた。対策室は警察庁からの豊富な金を引き出すための部署でもあった。拳銃を検挙すればするほど捜査費が報奨金のように受け取れる仕組みになっていた。当初は成績が全く伸びなかった。そこで拳銃の所有者を逮捕しない首無し拳銃の押収に舵を切った。  諸刃の刃  首無し拳銃の押収は、暴力団から拳銃を譲り受ける代わりに別の犯罪を見逃したり、捜査情報を流すと言う危険性が伴っていた。警察庁は首無し拳銃の検挙の危なさに目を瞑り、奨励するような自首減免規定をおこなっていた。自首減免規定とは、銃を持っている者が自首すれば罪に問われない、または罪を減軽して貰える制度だ。因幡は、拳銃を持っていない暴力団員には、用意した拳銃を持たせて自首させていた。  お役所仕事は、数字と実績が全てであり正義より、成果を追い求めてしまった。  最初は持ちつ持たれつの情報提供から首無し拳銃を差し出されたことだった。首無し銃とは持ち主不明の銃の事だ。反社との軽いコミュニケーションのつもりだったがそれが上司からの称賛と同僚からの渇望を浴び、今までにない高揚感を得た。因幡はその快感に酔いしれた。生活安全特別捜査隊に移動するまでの八年間で百丁近い拳銃を押収していた。誰もが異常な数字であることは認識していた。それを知っていても幹部の「今月も何とかならんか」の要望に応え続けた。激を飛ばされた数日後には、首無し銃を押収して見せた。そのほとんどが捜査対象者との裏取引で成し遂げられていた。  因幡が機動捜査隊に配属された頃、「機動捜査隊は110番を処理するだけでは飯は食えない。捜査の協力者を作って、独自に情報を取る。これが出来なければ啓示としてはやってはいけない」と教わる。刑事を目指していた因幡は、関係者に名前を憶えて貰うために特殊なフォントや二つ折りにし開けばオルゴール鳴るものやステッカーなど独自の名刺を作り、職務質問を行った暴力団員や水商売の関係者、繁華街の店舗経営者などに配り歩いた。その甲斐あって、徐々に関係者からのタレコミを得られるようになる。反社との関係が深まるにつれ、一線を越える罪悪感は薄れて行った。  それに拍車を掛けたのが捜査ノルマだった。覚せい剤所持を逮捕すれば10点、5g以上だと+5点、空き巣犯や放火犯など捜査内容ごとに点数が決められ、毎月30点のノルマが課され、達成できなければ残業代が付かないなどの罰則があった。指名手配犯の逮捕は点数が高く、居場所の分かっている容疑者に手配を掛け逮捕することも行われていた。    ノルマとは媚薬だ。  課せられることは苦痛だが達成すれば優越感を得られるだけでなく、周囲からの評価も得られる。捜査員同士で点数の取り合い、犯人の奪い合いも少なくなかった。  「事件は起きてからでは遅い。起こせばいい」と因幡は、自分から暴力団員に喧嘩を売り、相手が挑発に乗り手を出したところを公務執行妨害で逮捕したり、令状も取らずに覚醒剤の売人宅に踏み込み覚醒剤を見つけ出すようなこともした。また、捜査協力者の弱みを握り拳銃を持って自首するように指示するようにもなる。その拳銃は因幡自身が用意することもあった。拳銃を入手した暴力団とは違う暴力団員に持たせて自首をさせる。自首させる相手がいない場合は、コインロッカーに入れそれを見つけ出し実績として成績を重ねていった。一度上手くいけば二度・三度と常習化していった。これらの行為に対し上司は黙認するかそれを利用して自分の評価にすることも多々あった。これがエスカレートし、拳銃の取引を餌におとり捜査も行っていた。  おとり捜査には危険が付き物だ。因幡も命の危険に晒されたことがある。拳銃の取引の際、相手がトカレフを出し、本物だと確認した際、相手が因幡の耳の変形に気づいた。「柔道をやっているのか。そんな耳は警察にしかいない」と拳銃の撃鉄を起こし因幡に銃口を突きつけた。その場は緊張感に包まれた。その際、「こいつ学生時代にレスリングをやっていたんだ」と捜査協力者が機転を利かし、その場は収まった。犯意誘発型は違法性が問われることが多いが、ノルマ達成には背に腹は代えられないまで追い込まれることも少なくなかった。  因幡は、捜査協力者との関係を深めるために飲食代を負担したり、小遣いを渡したりして、捜査協力者を増やしていった。関係を維持するため、金が常に必要になってた。全て表に出せない金であり、自腹だ。関係が深く、広くなれば金は湯水のように注ぐしかなかった。とは言え、限界があるのも確かだ。  「最近、金欠ですか。顔に出てますよ」  「わかるか」  「どうです、仕事を手伝いませんか」  「密売人になれと」  「今に始まった事じゃないですか。毒を食らわば皿までですよ」  こうして、金策に困ると当初は、覚醒剤の運搬や保管を手伝うだけだったが、次第に協力者とともに拳銃や覚醒剤の密売に手を染めるようになっていく。因幡は関東の暴力団と接触し、覚醒剤を1kg三百万で手に入れ、パケに小分けにして販売し、三千万円ほど手に入れていた。この頃、因幡の羽振りは見るからに派手になっていた。高級車を何台も乗り回し、マンションもいくつか購入し、覚醒剤の保管場所や幾人かの愛人を住まわせていた。 「毒を食らわば皿まで」か、と因幡は自分自身でも覚醒剤をしようするようになっていた。  覚醒剤を使用すると筋肉が収縮し、食道が細くなり声が高くなったり、瞳孔が開いた状態になり目がキラキラと光るため、覚醒剤常習者と対峙している警察官が見ると 覚醒剤使用を悟られるの明らかだった。そのため因幡は、手に入れた金銭の一部を懇意ある巡査部長との交際費や外車の購入にも使い、腐敗者を手懐けていた。  因幡を告発した渡辺は捜査協力者の一人だった。渡辺は因幡との間で不確かな関係から無理難題や金銭的トラブルを生じさせていた。渡辺は因幡の要求に応えられなくなり、秘密を知っている自分は消されるのではないかと疑心暗鬼になり、暴力団の魔の手から逃れるためにも自供の道を選んだ。渡辺は捕まることで警察という安全地帯に逃げ込んだと思い込んでいた。  木乃伊取りが木乃伊になる。  因幡は、薬物対策課に勤務中、任意同行を求められ、尿検査を受けさせられた。陽性反応がでて逮捕された。  「終わったな」と因幡警部は心の中で呟いた。渡辺の証言通り、陽性反応がでたため、覚せい剤取締法違反使用容疑で逮捕された。家宅捜査では、因幡本人の名義で借りられていた札幌市中央区のマンションからビニール袋に入った覚せい剤に加え、ロシア製の自動式拳銃一丁が発見され、銃刀法違反で。覚せい剤の量から密売目的所持の容疑でも逮捕された。因幡は、二日後には道警から懲戒免職の処分を受ける。警察の内情は知り尽くしている因幡は、争うのは不利と考え、取り調べに逆らうことはなかった。 裁判で因幡は、覚せい剤に手を染めた経緯を述べた。  「2000年秋頃だったと思う。上司との軋轢によるストレス解消のため使った」  「量が多いが自分以外で使ったか」  「ああ、売り捌いて2000万円程、得た」  因幡は1976年道警に入り、暴力団捜査に長く携わっていた。1993年警察庁は全国の警察へ銃器摘発を呼び掛けていた。道警は防犯部に銃器対策室を設置し、因幡は旭川中央署から捜査員の一人として配属された。最初は持ちつ持たれつの情報提供から首無し拳銃を差し出されたことだった。首無し銃とは持ち主不明の銃の事だ。反社との軽いコミュニケーションのつもりだったがそれが上司からの称賛と同僚からの渇望を浴び、今までにない高揚感を得た。因幡はその快感に酔いしれた。生活安全特別捜査隊に移動するまでの八年間で百丁近い拳銃を押収していた。誰もが異常な数字であることは認識していた。それを知っていても幹部の「今月も何とかならんか」の要望に応え続けた。激を飛ばされた数日後には、首無し銃を押収して見せた。そのほとんどが捜査対象者との裏取引で成し遂げられていた。  2002年8月、渡辺はある職員の計らいで札幌拘置所の個室に入れられた。ある夜、ドアが開き、男が二人入ってきた。一人が渡辺を送襟絞で一瞬にして落とした。もう一人が渡辺の靴下を剥ぎ取り、片方を口に詰め込み、もう片方を自ら首を絞めたように首に巻いた状態で布団の中で横たわされた。仕上げに渡辺の鼻と口には濡れたテッシュがかぶさられた。刑務官が発見したが、死因は追及されず、窒息死で遺書はなく自殺としてあっさりと片付けられた。  この一か月前にも事件が起きていた。因幡の元上司が公園のトイレ内で遺書もなく首を吊って自殺したものだった。  元上司は、泳がせ捜査に必要なロシア密輸ルートの開拓を因幡に託した次長だった。しかし、数丁の拳銃を押収しただけで成果は得られないでいた。そこへ捜査協力者から話が持ち込まれる。大量の違法薬物を数回に分けて密輸する代わりに最終的には数百丁の拳銃を摘発する仕掛けだ。  道警銃器対策課は、すすきのの「晴ればビル」の一室に電話対応だけの架空の会社「OK商事」を設立した。目的は覚醒剤や大麻を密輸し、それを荷受けするためだ。 この際行われた泳がせ捜査は、覚醒剤130㎏(末端価格当時約40億円)、大麻2t(末端価格当時約60億円)を手引きしたが、保管する際、捜査協力者と因幡が半分づつ隠し持つことになった。しかし、結果は捜査協力者に持ち逃げされるという大失態を犯してしまう。拳銃を手に入れられず、大量の薬物を国内に持ち込んだことになった。この際、覚醒剤を手引きしたと言う弱みを関東の暴力団に握られてしまった。関東の暴力団は因幡に「自分たちにもお願いしますよ」と持ち掛けられた。そして二回目が実行に移され2tの覚醒剤が関東の暴力団に引き渡された。その後、泳がせ捜査に関わった者は別部署に異動させられ、闇に葬られた。  道警の生活安全部の参事官の二人に因幡は呼ばれた。「松本はお前のS(捜査協力者)だろ。盗難車を密輸しているのを知っているだろ」と詰め寄られたが否定した。 松本は銃器対策課のSであり、この聞き取りは上司である伊藤英雄次長が上層部にチクった責任転嫁だと因幡は悟った。反論したが序列からして受け入れられるはずもなく、道警からは完全に干され、実績は全て否定された。あとは、朽ちていくのをただただ待つだけとなった。  元上司である伊藤英雄次長は、不正がばれ、処分され追及される前にさっさと依願退職していた。組織を離れた者に反社の者は容赦なかった。一般人となった元上司は、事情を知る捜査協力者から退職金目当てに脅されることもあった。当初は、少額で済んでいたが要求は厳しいものになることを経験から分かっていた。元上司は耐えられなくなり、道警の息が及ばない警察庁に自白する意思を固めていた。元上司も渡辺と同じように夜一人で歩いていた所、いきなり男が現れ「ばらせば、ばらすぞ」と威嚇された直後、裸締めで落され、もう一人と協力して、公園のトイレ内で首吊りに見せかける工作を施された。  元上司と渡辺を処理したのは、警察内部の恥部を処理する公安の特殊な組織であるかは定かではないが、事件が事件であるにも関わらず、余りにも淡白に処理されている摩訶不思議さは拭えない。  因幡は刑期を終え出所している。メディアへの露出も少なくない。警察の知られざる組織は因幡を生かすことで、必要以上に闇を暴かれないようにすることと、道警への警告を意味しているかもしれない。正に「毒を以て毒を治める」か。  渡辺も元上司も関係者は自殺する原因に心当たりがないと語っている。二人の不可解な死は初公判の前の出来事だった。道内では未成年者も含め、自殺と判断される死因が横行していた。  そんな中、因幡の初公判が行われた。札幌地裁は因幡に懲役9年の実刑、罰金160万円を言い渡した。判決では、覚せい剤営利目的について捜査協力者との多額な交際費、愛人との交際費を賄うために捻出したものだとした。さらに捜査情報の入手目的には、警察組織内に自らの立場、能力を誇示する思惑もあり、動機は自己中心的かつ利欲的と断罪した。  因幡は法廷で、これまでの道警の組織ぐるみの拳銃捜査のやらせや捜査のために覚醒剤取引の見逃しや違法捜査を隠蔽するため虚偽の証言をしていたことを実名を挙げて暴露していた。しかし、裁判官・検察側・弁護側はやらせ捜査などの問題点には言及しなかった。この判決に検察側・弁護側とも控訴せず、結審した。ここにも闇の深さ、根深さが垣間見える。  裏と表が手を組めば当然の結果だ。警察が、絶対的正義と考えられないのはこの国の正義を揺るがす一大事だ。警察権力の下であってもただの不完全な人間の要素も存在する。利する気持ちに緩みが生じれば、楽な方へ導かれるのは人間の性であり、恐ろしくひ弱な一面でもある。
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