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妻が交通事故で亡くなった。
そう言ってしまえばそれだけのことだが、そうもいかない。わたしの妻は知らない道を運転するのを嫌って、家の近所しか走らない。よってゴールド免許だ。
妻は、知らない男の運転する車の助手席で亡くなった。今となってはどうでも良いことだけど、男も妻も、少量のアルコールを摂取していた。運の悪いことに、エアバッグは開かなかった。
男の名前は別段ここで書くことでもなく、平凡な名前だ。国際B級ライセンスを持っていたということが、特筆すべきことだろうか?
年老いた夫婦が彼の父母だったらしく、頭を下げた。しかし問題というのはなかなか複雑なもので、彼にも妻がいることが発覚した。
彼女はわざわざ北米から飛行機で駆けつけたという。日本人だった。
「あなたの妻のせいでうちの夫は死んだのよ」
まったくその通りだと思った。
ただし、「妻」と「夫」を入れ替えれば……。
妻は小さな壺に入って帰宅し、まだ大人とは言えない子どもたちはただただ泣いた。
そして私は、妻はあの小さな壺の中でもあの男と一緒にいたかっただろうかと、つまらない嫉妬にかられた。
そうだ。
あれは妻の前の男だ。
私は唐突にそれを思い出した。
妻を置き去りにして、海外に行ってしまった男だ。……妻は冗談でも男の名前を私の前で出すことは無かった……。
妻はその日、どんな気持ちになったのだろう。
若かった頃のことは精算して、ふたりは笑顔で食前酒でも飲んだのだろうか?
お互いのパートナーのことは口に出さず、その微妙な距離感を楽しんだのだろうか?
それともふたりで夫婦の顔をして、仲睦まじい夫婦を演じたのだろうか? 例えば腕を組んだり?
わたしの気持ちは、どこかへ置き去りにされた。
「お父さん」
障子の隙間から、娘が顔を出した。
「こんな時間にどうしたんだ」
わたしはどうにも娘にも、妻にも上手く接することができなかった。
「お父さん、ごめんなさい。言おうか迷ったんだけど……」
「……?」
「わたしだけが知ってたの。あの日、お母さんが出かけることを」
「……今更、仕方ない」
娘は下を向いて、押し黙った。妻が買ってきたパジャマ代わりのキャラクターもののTシャツが、年よりも娘を子供っぽく見せる。
「お母さん、たまにあの人に会ってたの。……数年に一度。女の子みたいだった、あの人の話をするとき」
「女の子?」
「わたしも最初は嫌だな、不倫じゃんて思ったんだけど、お母さん、あの人のこと話すと、本当にかわいくて。段々、たまにはいいんじゃないかなぁって思うようになって……」
畳の上に涙がぽたぽたこぼれた。まるで夏の突然の雨のように。その涙が畳に染み込まれていく様を見つめていた。
「でもまさか、こんなことになるなんて。お昼を食べてお茶するだけよって、ほんの数時間、想像するようなことなんて何も無いのよって」
「……お前のせいじゃないだろう?」
「わたしの、せいだよ」
久しぶりに娘の頭を撫でた。もう、大きくなった娘は、小さい頃わたしを困らせたのと同じように泣くんだな、と遠い目で眺めていた。
そうか。
妻はその数時間をやり繰りして、相手が仕事で日本に来ている時に会っていたのか。
少女のような気持ちで?
何もやましいことはしないで?
ふたりの激しい恋愛のことは結婚前に聞いていたけれど……。
何をするわけでもないのに、十年以上の月日を経てなお、わざわざお互いに時間を作って会っていたということが、私の心を何故だろう、かえって鋭くえぐった。
「お父さん、そろそろ結婚20周年ね」
と無邪気に笑う妻に、私はなんと答えたのだろう。あのときの答えで彼女の気持ちは変わっただろうか。
彼女の願いは、いつだってたった一杯のコーヒーで満たされたのかもしれない。ほんの少し、一緒に過ごす時間で。
ガタガタと、強い風に吹かれて雨戸が鳴った。今夜はこのまま天気が崩れそうだ。事故の日に雨が降らなくてよかった。車はスリップしなかった。妻の顔は安らかで美しく、この上なく満ち足りたものだった。
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