お題『残業』

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お題『残業』

 ライフル銃を撃ったとき特有の音が、周囲に響き渡る。標的を仕留めたことをスコープ越しに確認した僕は、すぐさまその場を離れた。狙撃場所は即座に特定されるものだ。捕まりたくなければ、さっさと退散するに限る。  ビルの裏口に待機させていた車の助手席に乗り込めば、運転手の男がごくろーさま、と笑いかけてきた。僕がドアを閉め切る前に動き出した車は、予定通りの逃走ルートを走り始める。 「本日も大変良い腕前で、おにーさん感動しちゃった」  前髪をかき上げながら大げさに褒めてくる男──ワタリは、僕の仕事上のパートナーだ。依頼された暗殺を実行するのが僕、計画を立てたり事前準備を行ったりするサポート役がワタリ。この春で、組んでから三年になる。  チンピラが好みそうな派手なシャツに丸いフレームのサングラス、金色に染めた肩までの髪を一つに結んでいるワタリは、どこからどう見ても胡散臭い。自分のことを『おにーさん』とか呼ぶあたりも非常に鬱陶しい。たかだか五歳差のくせに。  けれど、これで仕事はできる男なのだ。だからこそ、三年間も相棒を続けられている。 「この調子で、残りの一人も()っちゃおうねぇ」  今回の依頼は、さっき眉間を撃ち抜いた男の殺害とあとひとつ。 「さっきの男の弟、だったよな」 「そ。兄が凶弾に倒れたことはすぐに報告がいくだろうから、警備はさっきより厳しいと思うよぉ」 「でもお前なら、僕が仕留められるポイントを見定めてくれてるんだろ?」 「うーん、そのつもり、だったんだけど」  常に飄々としているワタリが、珍しく歯切れの悪い物言いをしてくる。何か問題が起こったのか、と問えば肯定が返ってきた。どうやら、さっきのターゲットがスケジュールより遅れて行動していたせいで、予定がズレてきているらしいのだ。 「あと五分で目的地に着けなければ、元々予定してた場所からの狙撃は諦めたほうが良いかな」 「あと五分で着くのか?」 「多分無理だねぇ」  そう言って、ワタリは急にハンドルを左に切った。そうして、予定していたルートとは異なる道を進み始める。どうするのか様子を窺っていると、彼は人通りのない薄暗い路地で車を停めた。 「ねぇ、アオくん」  どこか甘えるような猫撫で声でこちらに体を寄せてくるワタリに、僕は渋面を返した。嫌な予感がする。 「残業代ちょーだい」 「やだ」  僕も残業なんだぞ、と反論するより先に唇が塞がれる。コノヤロウ、と思うものの、こうなってしまったら潔く諦めるしかなかった。満足するまでは絶対に離さないんだ、こいつは。  ぬるり、と入り込んできた舌が、僕の口の中を好き勝手に蹂躙していく。上顎を舐められ、背中にぞくぞく、と震えが走った。咄嗟に後ろに逃れようとするも、気づけば後頭部に回されていた大きな手のひらがこちらの動きを阻止してくる。 「ん、ぅ……、っ、ふ」  僕の弱々しくも甘えた声が車内に響いて、とんでもなく恥ずかしい。なのに、腹が立つほど気持ちがいい。  何度も角度を変え、深くまで僕を味わったワタリは、最後に上唇をゆるく噛んでから離れていった。僕は、べたべたになった口周りを手の甲で拭いながら息を整える。 「ごちそーさま」 「……バカ、あほ、色情魔」 「失礼だなぁ。おにーさん、これでもだいぶ我慢してるのに」 「どこが……っ」 「まだ、最後までシたことないでしょ?」  ワタリが僕に触れ始めたのは、今年に入ってからのことだ。好きだよ。軽い調子でそう告げられ、触れるだけのキスをされた。僕は、それを拒まなかった。ワタリに恋をしているかと問われれば首を横に振るが、ワタリに情があるかと聞かれれば頷くことしかできなかったから。  ──隣にいてくれないと、胸が苦しい。僕の相棒はもう、ワタリしか考えられない。  正直にそう伝えたら、彼は心底嬉しそうな顔で僕を抱き締めてきた。  その日から、事あるごとにキスをされている。嫌悪感は全くなくて、気持ちよさばかりを教え込まれていた。そのせいか、最近はくちづけられるだけで体が熱を持ってしまい、少し困っている。 「一応おにーさんだからね、二十歳まではってこれでも理性を働かせてるんだよ?」 「……僕、もう成人済なんだけど?」  自分でも子供っぽいと思うものの、ついむすっと唇を尖らせてしまう。それを見たワタリは、楽しそうにくつくつと喉を鳴らした。 「ね、アオくん。二十歳の誕生日、来月でしょ?」 「……なにが言いたいんだよ」  にんまり、とワタリの唇が弧を描く。 「大人になったら、おにーさんとイケナイこと、沢山しようねぇ」 「……イイコトじゃなくて?」  揶揄うような物言いが悔しくて咄嗟に思いついた言葉を返せば、相手は目を丸くしたあと、ゆっくりと顔を近づけてきた。またキスされるかも、と思わず反射的に目を閉じた僕の耳元で、ワタリの息遣いを感じる。 「アオくんは、イイコトだと思ってくれてるんだ?」  ぶわっ、と。自分の顔が真っ赤に染まったことを自覚する。否定しようとして、けれどそれもなんだか違うような気がして唇をわなわな震わせることしかできない僕に、ワタリは満足そうに微笑んでみせた。 「かぁわいい」 「っ、うるさい!」  至近距離にある相手の胸を押し返せば、抵抗されることなく素直に離れていく。  僕から距離を取ったワタリは、何事もなかったかのように後部座席に手を伸ばした。彼の商売道具であるパソコンをケースから取り出し、素早くカチャカチャとキーボードを操作していく。残りのターゲットについて調べ直しているのだろう。片耳にだけつけているワイヤレスイヤホンでも、多分ずっと──僕にキスを仕掛けていた間も情報を仕入れ続けていたのだと思う。  本当に仕事はできる男なのだ、ワタリは。 「うん、大丈夫そう」  待ったのは、数分。パソコンから顔を上げたワタリは、新しい狙撃ポイントと注意点を伝えてきた。 「それじゃ、もう少しだけ残業頑張ろうかぁ」 「……りょーかい」  僕が頷きを返すと同時に、車がゆっくりと動き出す。流れ出す景色をぼんやりと眺めながら、僕は、一つだけ伝えておきたくて運転中の相棒に声をかけた。 「ワタリ」 「なぁに?」 「さっきみたいな、接触。仕事中はほんとやめろ」 「んー、うん。その心は?」  ワタリの問いかけに、僕は一瞬理由を教えることを躊躇する。けれど、今後のことを考えればどうしても受け入れてもらうしかなくて、渋々でも口にするしかなかった。 「ワタリに触れられるとぞわぞわして、……集中、できなくなりそうだから」  自慢ではないが、僕の狙撃の腕は一流だ。撃つときに心を乱されるようなことなんて、これまでは一度もなかったんだ。  それなのに、今もまだほんのりと、指先に熱が燻っている。ワタリに触れられたときだけ、どうしようもなく心がざわめく。 「狙撃、失敗したくない。だから、仕事中は触んないで」 「…………わかった」  少しの間があり、この男にしては簡素な返答が返ってきた。そっと様子を窺えば、真顔のうえ怖いくらいに強い視線でフロントガラスの向こう側を見つめているワタリが視界に入ってくる。 「くっそ……。来月、ほんと覚悟してろよなぁ」  呟きというには熱のこもりすぎた彼の独り言に、心臓がばくり、と大きな音を立てた。僕は慌てて、ワタリから視線を外す。  窓の外、沈んでいく夕日を眺めながら、あと何回か夕暮れを繰り返したあとの夜のことを考える。心臓が落ち着かなくなるから、考えてはいけないのに。  人を撃つ行為よりワタリとキスするほうが心臓に悪いなんて、僕は人としてどうかしてるのかもしれない。  計画の実行は一時間後。それまでには平常心を取り戻さなくては。僕は、のたうち回りたくなる気持ちを必死で抑え込みながら、ライフルケースを抱え直した。
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