影に雑踏

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「ヒサメくんは今日もお休みです」 花弁がよく湿り気を帯び、吐息を捻じ伏せられた夜のことだった。 雨の(たむろ)が矢継ぎ早に責められる窪みを 爪先で更に拷問するようにして、 私はもう流れなくなった涙を瞳の奥へと封じ込めた。 シャッターを切った瞬間に微細な粒の集塵にしか なることのできないこの眼下の画像。 二度と見返しはしないくせに溜まりゆくフォルダで 喘ぐ喧騒を消し去ることが出来ない。 影を産み出し、人は光を探す。昨日も去年も一昨年も生きていた。 × × ×  人はいつでも、幾つかの影を持っている。  彼は正義に満ち溢れた人だ。それこそが私を宥め、慰めそして生命の糧となった。私というこの世界の片鱗が存在するために彼は在った。だが、誰が手にしようと正義は時に、人間という醜悪を露呈することを意味するのだと彼はまだ知らなかった。無知は素晴らしい。知らないという感情で大人になれるのだから。  ……オトナとは一体何を指すのだろう。校庭の端で花相手に涙を埋める児童と、他人の心臓に言葉という土を纏ったまま土足で入り込む中年。果たして。世の中に蔓延る事象に答えはない。終着点もない。だが、交錯点はあるのだと思う。交錯、いわゆる妥協というオアシスを求め、無知という仮面を被った誰かが、今日も誰かを破壊した。  年季の入ったスラックス、アイロンがけ特有のテカリが反射する制服、感情を放棄した葉桜、言いそびれて堕胎した言葉。飲み込んだ言葉は喉奥でつかえるので、仕方なくこの体から排出したらば、今度は体内の奥底で鼓動を始め、やがて血液となって体内を駆け巡った。生まれた言葉を追い出すこともできない。人間は愚かだ。 「ユウキ……ヒサメ、は今日も欠席か」  夕城氷雨(ゆうきひさめ)。彼はいわゆる不登校で、小学生の時も中学の時も教室に現れなかった。クラス替えの度に私は同じクラスに振り分けられたが、彼の意志で来ないのだからどうしようもない。とは言いつつ、もし氷雨が毎日登校していたとしても、私が氷雨と親しい様子を態度で示したかと尋ねられると肯定できない。所詮自分以外みな他人だ。イジメのターゲットが変更される周期は月の満ち欠けよりも早い。身を守る方が堅実なのだ。太陽の端で身を隠す白昼の月は光源の邪魔にならぬよう今日も目を閉じる。見上げる者など現れない。  白昼、氷雨がどこにいるかは知らない。保健室なのか、カラオケなのか、家なのか。でもいつでもどこかに存在していると確信できた。新月のように。目の前にいなくても、君はどこかで存在している。  「で、星になりたいんだ、俺は」  白昼の彼の行動は不明だが、夜にはよく私の部屋にいた。彼の消息を私だけが確認できている高揚感は口中で溶かそうと試みた甘ったるいコンビニのグミの中に溶けていった。   「死にたいの?」 「馬鹿か違うわ」    私を心底蔑むような瞳を前髪で隠したまま小さく笑った。幼子の頃とは違う、ヘアオイルがツヤを纏わせた黒髪。いつも氷雨は誰かを軽蔑していて、同じ重さで誰かを守ろうとしている。それは唯一の平等であり、優しさなのだと、私だけが知っているはずだった。  「月は今この瞬間も地球から離れてってる」   「……は?」  「月スペース消滅する日って検索したら出てきた。で、太陽はもっと先に消滅するらしいんだけど、てことはさ、星ならもっと長く存在できるんじゃねえのって、俺は思ったわけ。」  「え、意味わかんなすぎる。」  「別にお前に理解されたいと思って生きてねえよ」  「あァそうですか」  「でもさ、」  「ン?」  「(みぞれ)は俺みたいになんなよ」  そう言って氷雨は部屋に飾っている置物を弄び、「これキモ、貰ってくわ」と言い残して帰っていった。カプセルトイで手に入れたヘンな狼のフィギュア。その翌日、氷雨は消えた。この世のどこかで生きている確信はある。だけど、彼は本当に新月になった。  × × ×    フィギュアの空席に埃が溜まっている。ふと思う。彼はなぜ星の寿命は検索しなかったのだろうか、と。氷雨を知りたくて、「星 消滅する日」と検索バーに打ち込むと、星は生まれた瞬間に寿命が決まるのだと表示された。じゃあ星も死ぬじゃん、と呆れて吐いた息は再び直ぐに吸い込まれることとなった。……違う。彼は知っていたのだ。星の運命も。そして運命を持たない氷雨は星にならない。私は安堵した。安堵してしまった。それでも月を(なじ)るがごとく彼が星を選んだのも、優しさなのだろうか。  「夕城、夕城霙。……はい。今日も欠席はいませんね。えー今日は双子座の新月です。夜9時半ぐらいに窓から見てみて下さい興味あれば。……って言っても新月だから見えませんけどね」  生きることは難しい。だが私たちは生きていない世界で存在したことがない。だから生きていて欲しいと願う。その願いはどこへ飛んで行って、どこへ届くのか分からない。だから伝えたいと願うのだが、伝えることの出来ないまま私たちは地面を踏みしめる。果たしてそれは愛情なのか、劣情なのか、いかにもというものである。月は満ち欠けを繰り返し、知らぬ顔をして他人を装っている。独り部屋で私は夜空へスマホを向けた。月など見えない。どこかで影を産む。
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