万華鏡を砕く音が聴こえる

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万華鏡を砕く音が聴こえる

 僕は登山家だ。  明日エベレストに登るはずだった、日本の登山家。周りは僕のことを『カベバシリ』と呼んでいる。  今はネパール北部のクーンブ渓谷にある、ひっそりとした牧村で下宿している。  羊を放し飼いにしている芝生とは違い、ここまでの道のりは凍り付いた岩肌がずいぶん露出していた。夜に雪が積もり、朝には溶けるを繰り返した末、苔のように氷の膜が辺り一面を覆っていたのだ。  北国の極寒を侮っていたわけではない。しかし地面から伝わる冷気で靴下は凍るし、足場が崩れたらと考えると迂闊に雪の上も歩けない。僕にとって未踏の地は身体的にも精神的にも蝕んでいった。つまりは見通しが甘かったということなのだろう。  何より堪えたのは、ここの中継地点に着いて一息ついたときだった。  自分がこれから登る山の頂上を見上げた瞬間、盛り上がった地盤の塊が、とてつもなく巨大な獣のように見えて、心の底から震えた。  今までどうして歩いてこられたのか不思議だった。身体を支えていた大事な芯が抜けてしまったのか、僕は村の中心にある広場でへたり込んでしまった。  下宿先での生活は今日で三日目になった。いわゆる宿屋のようなものはなかったから、村を取り仕切っているという男の紹介で、大きな輪っかの耳飾りをした夫婦の家を紹介してもらった。  そろそろ登山を再開してもいいころなのに、もたもたと食料の買い足しもしていないのは、もう心のどこかでこの巨山を制覇することを諦めているからだろうか。  今日の夕飯にネパールのスープカレーもご馳走してもらったが、とにかく強烈な頭痛があったためか、食欲もあまりなかった。下痢も酷い。頭蓋に釘を打たれるような痛みが、昨日から続いていた。  下宿先の奥さんに話したら「ン、ザィグゥ」と言われた。高山病だ。まだ山に登っていないとはいえ、標高はすでに二〇〇〇メートルに達していた。  ネパールは公用語がネパール語になっているが各民族の言語も混ざっているため現地人とのコミュニケーションには苦労する。しどろもどろになりながら「何かいい薬はありませんか」と言ったら、燻した米粒のような丸薬を三つ渡された。  正露丸のようなものだろうか? 眉をひそめると奥さんは、ネパール語が達者ではない僕にもわかるようはっきりと言葉にしてくれた。 「頭が痛いときに、飲みなさい。一つずつ、飲みなさい。三ついっしょに飲んでは、いけないよ。昔のことを、思い出しながら、一つ一つ、飲みなさい」  親戚のおばあちゃんが親に内緒でお小遣いをあげるみたいに、丸薬をそっと握らせると、水の入った黄色の茶碗をもってきてくれた。  あまり信心深い性質ではなかったけれど、せっかくの良心を無下にするのもなんだか心が痛んで、奥さんの言うとおりにした。  一つ願掛けのようなものをしようと思った。この丸薬を飲んで頭痛が明日治っていれば、山を登ってやろう。そういうきっかけがないと、僕は山を下りてしまうだろうと思っていた。  昔というのは、どれくらいのことを指すのか、はっきりしないまま薬と水を流しこんだ。高原の井戸水を飲むというのは、なかなか勇気がいることで、喉が丸ごと縮みあがるような冷たさを乗り越えなければならない。  井戸水で冷え切った身体を毛布でくるみながら、瞼を閉じる。  果たして自分は、本当に治ってしまったらどうするのだろう。  登る気がないのに登りきれる山などはなく、エベレストに至っては登ろうと思っても登頂できない人が多くいる。  そのなかでは、あまりにも自分が矮小で臆病なのが情けなく感じた。 「昔のことか……」  久しぶりに日本語を声にした気がする。  下手なネパール語を話すのにもいい加減、疲れたのだ。日本に帰るまで、母国語を使わないというルールを自分に課していたが、それも無駄に終わった。僕という人間はいつもそうだ。  昔のことどころか、余計なことばかりが脳裏を過る……。奥さんに、どれくらい昔のことを思い浮かべればいいか、聞いておけばよかった。  瞼を閉じると、エベレストから降りてくる突風の音がより一層大きく聞こえて、トタン屋根を揺らし始めていた。  まどろみは何もかもを曖昧にさせた。布団のカビ臭さ、窓際の寒さ。あらゆるものごとは絶対的ではないような気がすると、もう抗えない。 「いつか一緒にエベレストを登ろう」  風の音に混じって聞き覚えのある女性の声が頭に流れ込んでくる。  夢に見るとは、まさにこういうことだろうと思った。 × × × 「誰か聴こえますか」  耳元で、誰かに呼ばれた気がした。  それは凛とした女性の声だ。それは僕を呼んでいるかは分からないけど、すぐ隣にいるのだからおそらく僕でいいのだろう。しかし振り返ろうとしたときに首が動かないことに気が付いた。  次に僕は目を開けようとするが、瞼が凍り付いてしまったかのように開かない。 すると自分の身体が身じろぎ一つもできないことに気が付く。体がプレス機で押し潰されているのではないかというほど重い。一方で、痛みは少なく、どちらかといえば苦しさが勝った。 「誰か、聴こえますか」  聴こえる。囁かれるような近さだった。  唇が辛うじて動かすくらいの空間が顔付近にあったおかげで呼吸はできるが、肺を膨らませると圧迫されて胸骨のあたりが痛んだ。「聴こえています」とだけ、かろうじて返すので精一杯だった。 「よかった、わたしの他にも人がいて」  姿は見えないがくぐもった女性の声が顔の近くで聴こえる。 「ここは、どこですか?」 「串崎山の中腹、あたりかも」 「山、なんですか」  女は、一瞬黙った。 「どこまで覚えてるの」 「どこまで、というのは」  再び、女は黙った。 「今、この状況、自分のこと、分かる?」  一つ一つ、まるで慎重に釘を打ち込むかのように彼女は話をした。それが余計に僕を混乱させる。この不可解な暗闇は何なのか、アナタはいったい何なのか。呼吸は苦しくなるばかりだった。 「何が、起こったんですか。目が開かないんです」  僕が喋ると口元からパキパキと何かが割れる音が聴こえる。 「目が開いたって変わんないよ」  彼女が淡々とした口調を装っていることには気がついていたが、その理由について明らかにしようとは思わなかった。 「……今は、夜なんですか」 「どうして?」 「だって、暗くて、寒いから」  彼女は、少し間をおいて「あは」と笑った。 「そういう意味では、こっちは朝だよ」  夜と朝が、僕の耳元で混在するなんて不思議だった。しかし彼女の笑い声を聞くと、僕も安心した。全身の重たさも、圧迫する冷たさも少し和らいだ気がした。 「これは、夢なんですか」  そう言うと、彼女が苦笑するのが分かった。 「そうだとしたら、とびっきりの悪夢ね」 「別に、悪夢だとは、思いませんけど」 「どうしてそう思うの?」 「独りでは、ないので」  瞼に張り付いた薄っぺらい夜に、女の息遣いがわずかに響く。 「君、面白いね」  すると彼女の声からは、何かを隠すような震えが薄れていた。それが良いことなのかは分からないけれど、僕も嬉しい気持ちになって「よく言われます」と応えた。 「なら、とびきりハッピーな悪夢にしよう」  それはまるで、映画監督が鳴らす「アクション」の掛け声のようだった。 「結局は、悪夢なんですね」 「身体が動かないのは普通に悪夢でしょ」 「それについては、正しいと思いますよ」 「そう、わたしは正しい。正しさの女神だ」 「たぶんそれ、邪神ですね」  悪夢に相応しいクツクツとした苦笑が漏れる。  ジョークを言い合ったあと、僕らはお互いに自分の状態を共有した。  暗闇に包まれた僕は、呼吸はできるものの全身が重く、身体を起こすことは出来そうにない。背中側からは氷水が染み込んでくるような冷たさがあった。  一方で彼女は、真っ白な空間に閉じ込められていると話す。首回りはある程度自由はあるものの、胸から下の感覚がほとんどないとのことであった。暖かい気がするし、寒い気もすると話した。 「こんなに近いのに、別の世界に住んでるのね」  まるで恋人同士の別れ話のような言い回しだったけれど、僕らの間にそんな認識はないのだ。彼女は自分で言った発言に自分で「それはないか」と笑っていた。 「わたしは、キョウコ。鏡の子どもで、キョウコ」  君は? と訊かれて僕は答える。 「僕は、カベバシリです」  彼女はまた吹き出して笑った。 「ネパールの山に棲んでる鳥でしょ、それ」  詳しいですね。と返すと、エベレストに登るために勉強中だからね。と、嘘か本当か分からないことを言ってくる。 「あのさ。それって、本名なの?」 「違います」 「じゃあ、ペンネームだ」 「皮肉ですよ。みんなが僕をそう呼ぶので、僕もそう名乗ってるんです」 「……なにそれ、つまんない。思うがままに生きなよ」  僕が無言のままなのに痺れを切らしたのか「眠くなっちゃうから、返事を考えるのは一〇秒までね」とルールが課される。 「僕はそう言う人間なんだろうなと思って、そう見られるように、振る舞って生きていたので」  言葉にしながら、誰より驚いていたのは自分だった。僕は、こんな内心をひけらかすような人間だっただろうか。 「君は役者みたいなことを言うのね」 なぜか、ここで話しておかないといけない気がした。そうでないと、僕はもう二度と話す機会を失ってしまうような、喪失の予感に突き動かされていた。 「これが、白黒の映画なら」 「うん、映画は好きよ」 「キョウコさんが僕の名前を呼んで、エンドロールが始まるんでしょうね」 「あは。そうかもね。お互い、映画の見過ぎね」  できるだけ、コメディ映画の役者のように僕らは振る舞って、キョウコさんは「じゃあ、君の話を聴かせてよ」と、まるでアダルトビデオの冒頭みたいな、下手くそなインタビューを始めた。 「貴方って、何歳なの?」 「十七歳です」 「若いなあ。わたしの一〇歳下だね」  年上だとは薄々勘付いていた。 「十七歳ってどんな感じ?」 「よく、分かりません。十七歳って感じです」 彼女は「なによそれ」と笑う。 「じゃあキョウコさんは、どんな感じですか?」 「二七歳って感じよ」 「具体的に、お願いします」 「あ、自分だけずるい」  彼女に聴こえないように笑うと、唇が冷たいと感じた。 「つまりは、歩き方ね。ようやく、この山の歩き方が分かってきたって感じかな」  ラジオ番組のお悩み相談コーナーをイヤホンで流しているかのように、心地の良い持論が展開される。 「そもそも山って、地域や時期によってぜんぜん歩き方が違うじゃない。地盤が固いとか、急斜面になってるとか」 「分かるよ。山にも個性がある」 「そうでしょ。だって違う山なんだもの。だからずっと同じ歩き方なんかしてたら、疲れちゃうし、怪我もしちゃう」 「怪我を、したんですか」 「ええ、そうね。怪我をしたわ。毎日のように」  ここで笑わないキョウコさんを、僕は美しい人だと思った。暗闇のなかで、何も見えないなかでも、彼女の声の輪郭ばかりが奇麗だった。 「わたしって、子どもが産めない女だから」  それは耳の柔らかいところに穴をあけたときの痛みに似ていた。僕はしばらく言葉を奪われていた。  一〇秒だよ、という声に僕は無理にでも言葉を絞り出す。 「どうして、それを僕に話すんですか」 「ふふ、教えてあげない」  なぜだか彼女は楽し気だった。 カフェで温かい珈琲に口をつけながら話しているような仕草を、暗闇のなかで僕に連想させる。  不思議だ。  話したそうにしているのは彼女だった。 「いつから、なんですか」  すでに、彼女への質問を考えている自分がいた。 紛れもなく、それはとても下手くそなインタビューだった。 「気付いたのは十七歳のときかな」  偶然にも僕の年齢と同じだった。 「病気、なんですか」 「生まれた時から膣がないの。だからこれを病気って言われるのは切ないかな」 彼女は先手を打って「謝罪はなしね」と新たなルールを追加する。 「寂しいですか」  これ以上、真摯な訊き方を知らない。僕は自身の幼さを、内心で恥じた。 「昔はね。選べると思っていたから」  僕は想像する。  それはきっとキョウコさんを傷付けるのだろうなと思いながら。  子どものいる未来と、子どものいない未来は、一見二択に見えた。けれど、実は選んだ先はもっと多くの枝分かれしている。それら一切を選べない彼女の、切実な感情を考えようとする。  しかし一〇秒のルールはそれを許してくれない。 「今は、違うんですか」 「うん。今は寂しくないよ」  さっぱりと、気持ちのいいほどはれやかな声で彼女は言う。 「わたしはね、エベレストに登るの」  僕は先ほどの会話を思い出し「冗談じゃなかったんですか」と訊ねるとキョウコさんは「知ってる?」と少し誇らしげに訊ねてきた。 「ある女性冒険家の手記にね、エベレストに登るとき、それは子どもを産む過酷さに似ていたって文章があるの」 「……クリス・マーキュリーの手記ですか」  1970年代に活動していたカナダの女性冒険家クリス・マーキュリーの手記をまとめた書籍は、古い本ではあるものの登山家の間では今でも根強い人気を誇る作品だった。  彼女は嬉しそうに「読んだことがあるの?」と食い気味で訊いてきて、それが嬉しくて「中学生のときに」と伝える。  ここだけ、教室の窓際で会話をしているようだった。 「……病院に行くとね、綺麗なカラダで産んであげられなくてごめんねって、母が泣くの」  びゅうびゅうと吹きすさぶ風の音からは大きく外れた、ゆっくりとした声だった。 「お母さんに泣かれた夜に、何度もクリス・マーキュリーの手記を読んだわ。あのとき、わたし、エベレストに登ろうって、心に誓った。わたしは美しい生き方をしているんだって。登り切ったときに叫ぶの、吹雪に咽ながらね」  きらきら、と。  暗闇のなかでも、星のように光る彼女の生き方と、その輪郭が美しいと思った。 「キョウコさんにとって、カラダとは生き方なんですか」 「そうね。きっと、このカラダに刻んで歩いてきたの。それが、二七歳のわたし」  まるで一本の映画にでもなりそうな物語を聴いていると、背中の異様な冷たさも、全身にのしかかる猛烈な痛みも、スクリーンの向こう側のように感じる。 キョウコさんが「ねえ」と呼ぶから、僕は「なんでしょう」と答えた。 「十七歳のあなたってどんな感じ?」  何かを懐かしむような声で、同じ質問で僕の鼓膜を震わしてくる。 「正しい、表現が見当たりませんが」 「間違おうよ。ここなら、転んでも怪我はしない」  そうだとしても僕は、きっと必要のない怪我ならしたくないと考える人間だった。自分だけは奇麗なままでいたいという心が、ずっとあるのだろうと思う。  きっと僕は心の寂しい人間だった。 「……美しい生き方を、したかった」  どういう十七歳なのか、言語化するのは難しかった。それでも僕と彼女の間に生まれる一〇秒が、背中を押してくれる。 「普段は考えないようにしてるんです。でも、学校の窓からグラウンドを眺めるとき、屋上に続く階段を登るとき、ふとした瞬間、頂上が見えないこの道程が恐ろしく、そこを歩いてる自分がひどく不格好に思えて、ぜんぶが嫌になるんです。ぜんぶが、僕には苦しい」  昔から、山が好きだった。  酒癖の悪い父から逃げるため、いつもお寺の裏山に駆け込んでいた。 何もかもがさらけ出される海よりも、そっと覆い隠してくれる山が好きだった。樹木や岩肌の一部となって夜を過ごすときもあれば、壁を走るみたいに山の奥へ駆けのぼるときもあった。  山だけが僕のことを守ってくれた。  毎日、泣いて震える母を置いて僕は山へと走った。おおよそ、僕は物心をつくまえから山を登っていた。  山は何も言わず、僕を木々の影に匿ってくれた。  むしろ、家へ連れ戻されることに強い憤りのような感情があった。何時に家に戻れば父が殴ってこないかも知っていた。それだけで自分が自立した人間だと思っていた。  それでも、家にいる母を置いていくのが怖かった。山のなかで考えるのは、いつも母の安否だった。家に帰ったとき、母が冷たい身体になっていることを想像すると身がすくんだ。 「でも僕は馬鹿だから、それでも母を待てなかった。父が怖かった。家を殴る父の拳が、いつ自分に向いてもおかしくなかったから、段々と死んでいく母の心に気付くことができなかった」  精神を病んだ母は、父と離婚したあとも当時のフラッシュバックに苦しみ、突然叫んだり、泣いたり、僕を誰か認識することができなくなっていった。  しょうがないと思っていた。これは逃げた自分への罰だと受け入れようと必死だった。  しかし母が僕のことを父の名前で呼んだとき、ひどく滑稽に感じて、もう誰かのために生きるのをやめようと思った。 「……高校に入学してからは登山部に入りました。僕にとっては、それが初めての部活動だったんです」  自分を変えたかった。ポジティブな気持ちではなくて、雨に濡れた服を早く脱ぎ捨てて洗濯機に入れてしまいたい衝動的なものだった。 そもそも「登山部」というものがあることに驚いた。  僕にとって山とは隠れるものであっても、登るものではなかったからだ。 入部当初は楽しかった。  みんな山が好きだったし、登山を誰もが愛していた。他校の登山部に比べて活動的で、部員は一〇人ほどだった。  ただ部員の誰かが山について語るとき、そこにはよく家族や兄弟の話が出た。  そういうとき、僕はどういう顔で、何を話していいかよく分からなかった。何でもない言葉に、僕は傷付いていたし、憤りさえ覚えた。それらの感情を隠し通せるほど大人にもなれなかった。  山を登るときもそうだ。僕は他の部員と登るペースを合わせることがどうしてもできなかった。いつも駆け足で、山頂へ向かっていた。  景色を楽しむという感覚はあったが、山頂からの眺めでしか僕は満足感を得ることができなかった。 「僕は、自分のペースを乱すあらゆる関係を憎むようになっていた。誰かと歩調を合わせたり、隣を歩くという当たり前が、僕にはどうしても遠かった」  『カベバシリ』というあだ名は、そんな僕を皮肉った部員たちが呼び始めた。  翼があるくせに、山を歩いて登る間抜けな鳥が、僕にはお似合いなのかもしれない。 「父親のことも、母親のことも、しょうがないと思います。そうじゃないと、生きていくことができなかった。だから僕は同情が欲しいんじゃない。いつの間にか、そういう生き方しかできなくなっている自分がただ憎かった。そういう感情が、僕の生き方を汚すから、だから僕を卑しい奴だと誰かに言って欲しかった。そういう感情が、ずっとあったから」  もう誰かのために生きるのはやめようと願っても、ふとしたときに母の嗚咽が甦る。 「君にとって、生き方って感情なの」 「……そうかもしれません」  線路の切り替えレバーのように、この生き方を変えることができたなら。  あなた はもう一度、僕の名前を呼んでくれますか。  そうやって、考えない日などなかった。  毎晩のようにうなされていた。母親と一緒に逃げることができた自分を妄想しては、勝手に傷付いて意味のない怒りを周囲にぶつけていた。 「純粋に生きようとすればするほど、周りからは誤解を生むよ」  子どもを優しく諭すような声に、僕は本当にその通りだと思った。反論もない代わりに、湧き上がってくる言葉もなかった。  次に彼女が「ねえ」と僕を呼んだとき、僕の心境としては期待よりも怖さが上回っていた。  しかし、彼女の口からはまったく予想外の台詞が飛んでくる。 「いつか一緒にエベレストを登ろう」  彼女の意図が読めず「どういう意味ですか」と訊き返す。 「そのままの意味よ」 「それは、キョウコさんの生き方でしょ」 「じゃあ、通訳としておいで」  答えになってないと僕は彼女の声を遮る。 「そもそもネパール語なんて分かりません」 「じゃあ勉強ね。目指せ、マルチリンガル」 「……他の誰かと、行った方がいいです」 「どうして?」 「だって貴女は、美しい生き方ができる人だから」 「わたしは、君を汚いだなんて思わない」  まるで呼吸を繰り返すように感情が飛び交う。 「たとえ他の誰に誘われても、わたしは君を選ぶ。君が行かないというならば、わたしも行かない。そういう、かけがえのない存在になりたいと、いま思ったの。こういう感情の動きを、わたしは、いま、ちゃんと表現できないけど」  この生き方にどこかに交差点があって、タイミングがたまたまこの暗闇のなかだったとしたら、それはとても幸福なことだ。  もしかすると、耳元にある薄い膜を挟んだその先にあるものが愛情なのかもしれないと思った。 「キョウコさんを、置いていくかもしれません」 「ふふ。君のペースに合わせるよ」  いいことを教えてあげる、と彼女は続ける。 「山はね、低くならないよ。だから、見えないときは二人で登りましょう。頂きを見る役と、ルートを確認する役がいるからね」  僕は、クリス・マーキュリーの手記にそう書いてあるんですかと訊ねる。  彼女は「わたしの言葉だよ」と、笑った。  それからどれくらいの時間が経っただろう。  キョウコさんが「眠くなってきちゃった」と力なく笑うので、僕は短く答えた。何と答えたのかは分からないけれど、それは肯定でも否定でもなかった気がする。僕も全身の痛みが薄らぼんやりしてきて唇も動かなくなってきていた。暑いような気もするし、寒いような気もする。  不思議と寂しいとは思わなかった。すでに僕らは、今までの会話の端々に「さよなら」を散りばめていた。  この雪に埋もれたなかで行われる、束の間のやり取りは、さよならを希釈して薄めたものに違いなかった。 「カベバシリ」  キョウコさんは僕の名前を呼んだ。それは恐らく、僕が記憶している限り最初で最後だった。  その嬉しさを壊さないように「なんですか」と、静かに言葉を返した。 「崖を駆けて登る、ネパールの鳥」  その鳥の在り方は偶然にも、とある男の生き方に似ていた。 「それでも、本当は飛べる。 わたしの、好きな、鳥の名前」  そのとき、柔らかくて温かい線が、撫でるように右耳の輪郭をなぞった。  それが彼女の舌だとすぐに分かった。 「君の、耳が、見える」  円を描くように舐められた部分が次第に熱をもつ。 愛しい人を撫でるような、静かな悪戯のようにも感じられる仕草が、僕の身体にわずかな温もりを与える。 「生きて」  聴こえたのは、硝子が砕けるような音と瞼の隙間から差し込む光だった。 × × ×  山羊小屋のトタン屋根を、風が揺らす音で目が覚めた。 口元から拭った唾液が、手の甲で凍りそうになっているのを見て、ここがネパールであることを思い出す。  目が覚めたとき、あれほどまでに苦しんでいた頭痛や眩暈が嘘のように消えていた。  そのまま僕はベッドから起き上がると、髭を剃ったり、歯を磨くのと同じように、エベレストを登るための準備を始める。  あの日、登山部の雪山訓練で雪崩に巻き込まれた僕と、一般登山者だったキョウコさんは、すぐ近くで発見された。 しかし、そのときすでにキョウコさんは亡くなっていた。 後の調べによると、全身を強く打った彼女はほぼ即死だったらしい。  だからといって、僕と彼女の会話が嘘になるわけではない。あれだけ僕に生きろと言っておきながら、自分だけ先にいってしまうなんて、自由で映画好きな彼女らしいとさえ思った。  彼女から貰った言葉が、僕をここまで歩かせてくれた。立ち止まることもあるけれど、それでも僕は何度でも彼女の言葉を思い出し、また歩き出すのだろうと思う。  おかげでリュックサックの一番取り出しやすいところには、クリス・マーキュリーの手記が入っている。  僕が荷物を入れる後ろ姿を、宿屋の奥さんはずっと見守っていた。朝には、山羊のミルクを絞る仕事もあるだろうに、振り返るたびにくぼんだ目元を震わせていた。 「カサディ、アガディ、バドゥン」  背後から、ゆっくりとしたネパール語が投げかけられる。  どうして、君は行ってしまうのか。  問いただすような言葉に僕は黙る。すぐに答えられなかったのは奥さんの言葉に仄かな怒りさえ感じていたからだ。命を粗末にするなと、僕を止めようとしているように思えた。  僕はエベレストに登って、僕は何かを成し遂げたいわけではない。  彼女に会えるとも思っていないし、彼女の代わりに子どもを産んであげることもできないのは分かってる。  割れたガラスをもう一度並べ直しても、それが元通りにならないのと同じだ。 僕らは、きっと綺麗な生き方なんてできない。彼女がエベレストに我が子を夢見ていたように、僕が山に母親の影を追い求めていたように。  それはたとえば、万華鏡を覗き込んだときに見える幾重もの美しい幻想に過ぎないのかもしれない。  それでも、砕け散ってしまった僕らの、夢のような残骸が、しらしらと雪の上で混ざり合うとき、それはとても美しい音が聴こえるだろうから。 「……ずっと、共鳴しているんだ」  あのときキョウコさんが見つけられなかった言葉を、僕が紡ぐ。  きっと僕らの感情は、山々の間を繋ぐように、カラダの奥で木霊していくんだろうと思う。この先もずっと。この足音は、優しい産声のように響き続ける。  僕は下手くそなネパール語で、そう答えた。 (終)
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