1.吉見彩紗

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1.吉見彩紗

「えっ、この子が?」  真新しいスーツに身を包んだ若い男が眼鏡の奥の目を丸くする。 「おい、失礼だろ」  年長の連れに窘められ、慌てて口を噤む。 「いいんです。みなさん、おなじような反応をなさいますから」  胸元にスパンコールのあしらわれたモスグリーンのロングドレスを着た女は優雅に微笑んで、居心地悪そうにクラブのソファに浅く腰掛けた若い男の隣に座った。 「吉見彩紗と申します」 「あ、どうも……」  穏やかな笑顔を向けられ、客は完全に毒気を抜かれて首を窄めた。きらびやかな店の雰囲気と目の前のナンバーワン嬢の迫力に完全に気圧されている。 「すまんな、彩紗。こいつ、銀座ははじめてなんだ」 「そうでしたか。楽しんでいただけるといいんですけど」  まだ三十代に見える男は、まだ懐疑的な表情で、ウイスキーのボトルを開ける彩紗の横顔を品定めするように横目に見ている。  驚くのも無理はない。座るだけで5万円、ボトルをキープすれば10万円の会計は軽く超える銀座の高級クラブだ。売り上げトップを誇るナンバーワンホステスとなれば、洗練された美女を想像するだろう。しかし、吉見彩紗はちがった。瓜実型の顔はごく平凡なつくりをしていて、水商売には珍しく黒縁の眼鏡をかけている。ヘアセットできれいにまとめてはいるものの、黒髪はカラーリングも施されず、メイクも薄めで、どちらかというと地味な印象を与える。体型も肥えているわけではないが、全体的に小柄で、スタイルがいいとはいえない。売れっ子ホステスのイメージからはほど遠い見た目だった。  2年前に24歳で六本木の店から移ってきた。六本木でも噂になっており、スカウトから声をかけられた。1年とたたないうちにナンバーワンの座に据わり、以来、だれにも立場を譲ったことがない。 「どうだ、初の銀座は」  今年の春から彩紗を指名しはじめた出版社役員の客がグラスを傾けながら後輩に尋ねる。得意げな口ぶりだったが、若い男は曖昧な返事をするにとどめた。銀座のクラブは現代の若者にとってそれほど特別な場所には思えないのだろう。隣に座る吉見彩紗にも関心は向けなかった。  とはいえ、銀座のブランドが落ちたわけではなく、作家やタレントなどの接待には欠かせない。必要に迫られて先輩に連れてこられたというところか。大学を卒業したばかりのエリート。遊び慣れているようには見えなかった。 「ま、おまえもそのうちわかるさ。銀座……というか、彩紗の魅力にな」  否定するわけにもいかず、迎合の笑みを浮かべる。ぎこちない表情を、おれは画面ごしにじっと観察していた。  上司は正しい。カップ焼きそばの麺を啜りながら、おれはほくそ笑んだ。 「おまえみたいなのが一番落としやすいんだよ」  新人社員の眼鏡のレンズに、吉見彩紗のやわらかな笑顔が映った。  吉見彩紗の勤務時間は午後7時から11時の4時間だ。出勤するのは水曜から土曜の週4日。たったそれだけの稼働で、月に一千万前後の売り上げを稼ぎ出す。一部は店の取り分となるが、ヘアメイクやタクシー料金などの諸経費を引いても、月収は数百万となる。  もちろん、ただ座っているだけでそれだけの売り上げを叩き出せるわけではない。夜の世界はそれほど甘いものではない。吉見彩紗が本領を発揮するのは勤務時間を終えた後だ。  夜食を終えてコーヒーを淹れていると、スマホが鳴った。LINEの画面を開くと、「今タクシーに乗った」とあった。業務開始の合図。「OK」と文字の浮かぶシンプルなスタンプだけを返す。テキストを打ち込んでいる時間がもったいない。重要なのは時間、というよりタイミングだ。  コーヒーカップをデスクに置き、パソコンに向かう。LINEの画面を開く。5時間ほどの間に届いた未読のメッセージは100件を超えていた。指先で軽く眼鏡を持ち上げ、小さく息をついた。素早くキーボードを叩く。はじめてしまえばあとは毎日のルーティーンに沿って淡々と作業を進めていくだけだ。しかし、内容はルーティーンどおりというわけにはいかない。正確さと慎重さが求められる実に繊細な仕事だ。 『山村さん、今日はありがとう。プレゼントも嬉しかった。大切に使いますね』 『聡さん、お仕事お疲れさま。台湾出張どうだった? お土産楽しみ!』 『おはよう、裕一郎くん。夜勤中かな? 彩紗は今終わったとこ。早く声聞きたいなあ』 『橋本さん、ご無沙汰しております。帰国は2か月ぶりですよね。久しぶりにお目にかかれるのが楽しみで、今日はずっとそわそわしていました。明日お待ちしています』 『圭ちゃん、元気? 1週間も会えなくてさみしい……次いつ会えるのかなあ……この前いってたゲームDLしたから一緒にやりたい!』 『今ちょうどお店終わって帰るとこで誠のこと考えてた。彩紗も会いたいよー』 『この間森さんが勧めてくださった本、昨日読み終わりました。私にはすこし難しいかなと思いましたけれど、読んでみるとおもしろくてページを捲る手が止まらなかったです。森さんの解釈をあらためてお聞きしてみたいです』  1周目を終えないうちに通知が鳴り止まなくなり、すぐに2周目に取りかかる。やりとりを繰り返しているうちに、1時間以上経過していた。  玄関で音がして、我に返った。集中すると時間を忘れてしまう。パソコンの画面で時間を確認する。もうひとりの吉見彩紗が帰宅したのだ。 「ただいま」  すこし疲れの見える間延びした声。作業の手を止めずに、声だけで「おかえり」と返した。部屋のドアは開けたままにしてある。リビングにバッグを置いた芙実がおれの部屋を覗き込んでくる。 「お疲れ、芙衣」 「ん、そっちも」  振り向かずに答える。不機嫌というわけではない。いつもとおなじだ。おれたちは同居していて、仕事もともにしているが、互いに過度に干渉することはない。 「ケーキ買ってきたけど食べる?」 「食べる」 「じゃあ準備するね。その前に志緒の様子見てくる。もう寝た?」 「9時ごろ寝たよ」 「わかった」  会話しながらもキーボードを叩く手は休ませない。芙実が出て行く気配を背中に感じる。ドアは閉めない。隣の部屋で志緒が眠っているからだ。ベビーモニターを設置してはいるが、気持ちの問題だ。  パソコンの脇に置いたモニターの画面に、我が子の寝顔を覗き込む芙実の姿が映る。プロの手でていねいにセットされた頭が揺れる。さっきまでべつの画面に映っていたホステスとはちがう人間に見えた。  ひととおり返信を終えてから、ようやく作業の手を止めた。ほんの2時間程度だが、集中していたこともあり、疲労を感じた。首を捻ると関節が軋む嫌な音がした。ただ座っているだけでもかなりの労力を使う。素早く反応する必要があるし、いっぽうでは些細なミスが命取りになる。神経を磨り減らす仕事だ。  リビングに入ると、シャワーを浴びてパジャマを着た芙実がソファに座ってスマホをチェックしていた。顔にはシートマスクを貼りつけている。どんなに疲れて帰ってきても、髪や肌のケアには手を抜かない。プロ意識を持って仕事に向き合っているのは芙実もおなじだった。 「南彭商事の山村、そろそろきつくなってきたかも」  スマホの画面を見つめながら、芙実が呟く。 「今日きてたよな。相変わらずくっそキモかった。なんなの、あのおっさん」  おれも顔をしかめる。キッチンで2杯目のコーヒーを淹れ、リビングにもどる。 「お礼LINE、ちょっと甘すぎた?」 「ううん。でもこれ以上しつこいようなら切るタイミングも考えたほうがいいかな」 「異議なし」  吉見彩紗は特定の客を特別あつかいすることはない。店の外ではいっさい会わないのが原則だ。同伴もアフターもなし。ルールを無視してしつこく誘ってくる客は店に話して出入り禁止にする。例外はない。 「ほかの客は? 欅出版の浅井が連れてきた新人社員とか」 「見込みありそうかな。上司といっしょだったからとくになにもなかったけど、べつでまたくるかも。どう?」 「おれもそう思う。いかにも女慣れしてない感じだったから、うまく転がせばけっこう落としそう」 「あのタイプは出世早そうだしね」 「それもある。早めに囲っといたほうがいいよな」  テーブルの上にケーキの箱。おれが好きな銀座の店のタルトだ。ショートケーキは志緒のためのものだろう。 「芙実は?」  おれの問いに首を振る。芙実は滅多に夜食を取らない。体型を崩さないためだ。 「ケーキで思い出した。明日の瀬戸さんの誕生日用にケーキつくっといたから」 「ありがとう」 「冷蔵庫入れてある。持ってくの忘れんなよ」 「わかった」  スマホの画面から目を離さずに、芙実が頷く。2時間かけておれが作成、送信したメッセージの全文をチェックしているのだ。不備を指摘するためではなく、客が店を訪れた際にLINEの内容と実際の会話に矛盾が生じるのを防ぐ目的で欠かさず確認している。たださらさらと読むだけではなく、内容を完璧に頭に入れておかなければならない。
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