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2.秘めた思い
桃のタルトを口に入れると、張り詰めた神経が解けていく。オンライン上のやりとりだけとはいえ、疑似恋愛を成立させるためにはかなり頭をつかわなければならない。友達同士の気軽なメッセージの交換ともビジネス上の連絡ともちがう。剥き出しの欲望を向けてくる客もいれば、本気で交際や結婚を求めてくる盲目的な客、直接的な欲望を向けてくる客もいる。相手をするのは楽ではないし、それなりにストレスも溜まる。思わず表情を緩めると、芙実が視線を上げた。
「そんな甘いのよく食べられるね」
「見た目ほど甘くないよ。フルーツだし」
芙実とおれは双子の兄妹だ。一卵性双生児だが、顔はそれほど似ていない。外見だけでなく中身も異なる部分が多かった。人付き合いが苦手で内向的な性格という点では共通していたが、芙実は甘いものが苦手でアルコールに強い。おれは甘いものが好物だがまったくの下戸だった。
「志緒にも明日ケーキあげとく」
「うん」
「保育園で友達と喧嘩したみたいでちょっと不機嫌だったからちょうどよかった」
「喧嘩したの」
「たいしたことじゃないよ。寝るときには機嫌なおってたからだいじょうぶ。お迎えの帰りに本屋でラプンツェルの絵本買った」
「ラプンツェルか。この前までちがうプリンセスが好きだったのに」
「4歳の女の子なんてそんなもんなんじゃないの」
志緒は芙実の娘で、おれたちはこのマンションに3人で暮らしている。六本木の店で働いていたときは家賃10万程度のアパートで生活していたが、志緒が大きくなってからは手狭になり、麻布十番の3LDKに引っ越した。家賃は3倍以上になったが、収入はそれ以上に増えているため家計が圧迫されることはない。
なんとなく会話が途切れ、静かになる。ふたりとも饒舌なタイプではない。店での様子や客とのやりとりのなかで得た情報や感じたことを話し合うのはいわば業務上のミーティングのようなものだ。日中は寝ていることの多い芙実の代わりに家事や子育てを請け負っているおれが志緒のことを報告するほかは、たいして話題もない。おれは黙ってタルトを口にはこび、芙実も黙々とスマホの画面をスクロールしている。
おれたちはもともと仲のいい兄妹というわけではなかった。母は未婚のままおれたちを出産し、父親には一度も会ったことがない。母は16歳で当時付き合っていた男の子を妊娠し、突然ふたりの子どもの母親になった。高校を中退して水商売をしながらおれたちを育てたが、まともに子育てができる環境ではなかった。幸い、祖母が健康で年金を受け取りながら小さなスナックを経営していたため、金銭的にも精神的にも支えになってくれた。祖母がいなければふたりとものたれ死んでいただろう。母親はアルコールに溺れ、自宅アパートに年中ちがう男を連れ込んでいた。
中学3年の頃、祖母が病死したことをきっかけに、おれは田舎を飛び出して東京に出た。数万円の現金のみ握りしめて、なんのあてもない上京だった。芙実は地元に残り、それから10年近い間、没交渉の状態が続いていた。
再会したのは4年前だ。母が死んだと芙実から連絡があり、7年ぶりに実家に帰った。母は祖母亡き後スナックを引き継いで経営していたが、店は赤字続きで、借り入れがかさみ、抵当に入れられていた。深夜、店にひとりでいるときに倒れ、翌朝、家賃の請求に訪ねてきたビルの管理会社職員に発見された。心筋梗塞で即死だったという。
芙実は妊娠していた。高校時代に付き合っていた先輩と卒業後すぐに結婚したものの、ギャンブルにハマった旦那は職場を追い出され、多額の借金をつくったうえに失踪していた。
「今度の日曜」
タルトを食べ終えると、おれはいった。
「志緒がアンパンマンショー見に行きたいんだって」
「ふーん」
「芙実もいっしょ行ける?」
「考えてみる」
それだけいって、芙実は立ち上がった。顔のシートマスクを剥がし、ゴミ箱に放り込む。
「あのさ、芙実」
「ん?」
自室に向かおうとする妹を呼び止めた。
「なに?」
「いや……最近なんかあった?」
「なにもないけど、なんで」
「なんとなく……元気ない気がしたから」
「そんなことないよ。だいじょうぶ」
「ならいいけど」
「なにかあったら報告するから」
「わかった」
「芙衣はまだ寝ないの?」
「おれはもうすこし。誕生日のお礼状も書かないといけないし」
「そう。まかせる」
「おやすみ」
「おやすみ」
短くいって、芙実は部屋に入ってしまった。双子の妹ながら、つかみどころのない性質だ。美人ではないが、ミステリアスでどことなく物憂げな雰囲気を纏っており、そこに興味を引かれる客も多いのだろう。
しかし、双子だからこそわかることもある。本人は否定したが、ここのところ、芙実の様子はあきらかにおかしかった。ひとりで物思いに耽ることが増え、これまで以上に口数が減っていた。
悩みがあったとしても、おれに打ち明けるとは思えない。おれたちはふつうの兄妹とはちがう。いっしょにいるのは互いに利用価値があるからであり、共通の目的を持つからだ。よけいな詮索はするべきではないのかもしれない。
コーヒーカップやケーキの箱を片付けて、再びパソコンに向かった。すこし目を離した間にも数十件の返信が届いている。
おれたちが「吉見彩紗」をはじめたのは3年ほど前のことだ。借金を返すため、芙実は歌舞伎町のキャバクラでアルバイトをはじめたものの、美人でもなく会話が巧みなわけでもない田舎ものが指名を獲得できるほど甘い世界ではなかった。精神的にタフでもない芙実はあっという間に疲弊した。客とのコミュニケーションが求められない風俗店に移ることも考えはじめていた。だが、おれが客のあしらいについてアドバイスするようになると、すこしずつ指名を獲きるようになっていった。芙実の代わりにLINEを送ったりお礼の手紙を書いたりしているうち、いつしか「代筆」は本業になっていった。
2店舗目で「吉見彩紗」と源氏名をあらためた。それまでも本名はつかっていなかったが、ふたりで相談した名前とキャラクターを設定することで、よりリアルな人物像を作り上げた。
パソコンでログインし、スマホと同時に利用できるLINEの機能を活用し、おれが「吉見彩紗」になりきって客とやりとりをする。芙実もまた男たちの理想を体現する完璧なホステス「吉見彩紗」を店で演じた。不要な話はせず、客の話に耳を傾け、的確な相槌を打ち、柔和な笑みを浮かべる。いっぽうで、LINEや手紙では時に情熱的に、相手の思いを受け止め、それぞれの趣味や職業に合った巧みな会話で楽しませる。朝と晩の挨拶は欠かすことなく、誕生日や記念日も決して忘れない。大切な商談や海外への出張の予定など店で話した些細な情報も決して聞き逃さず、さりげなくやりとりに織り込む。
「吉見彩紗」の心づかいときめこまかい気配りに客たちは感激し、さらに店に通うようになる。まさか別人が相手をしているとは夢にも思わない。
芙実が持ち帰ってきた名刺のデータをスキャンし、パソコンに落とし込む。店でかけている眼鏡にはカメラが仕込まれていて、芙実の視界に入る光景はすべて録画されている。席ごとにフォルダを分けて保存し、AIスキャンする。人工知能が表情筋のかすかな動きや動作を読み解き、客のタイプごとにグラフ化する。完成したデータをもとに、膨大な顧客ファイルに加えていく。
もちろん、実際のやりとりまでAIにまかせるわけにはいかない。いくらAIが急激に成長発展しているとはいえ、まだまだ人間の感情まではコントロールできない。ただし、客のバックグラウンドや動作、表情から抽出するデータはおおいに信憑性が高かった。機械が弾き出したデータをもとに、おれはそれぞれの好みや思考に合わせて求められる言葉を紡いでいけばいい。AIシステムは3人目の「吉見彩紗」といえた。
新たな客のデータをまとめていると、新たにLINEの通知が届いた。画面上に表示された名前に、おれの手は止まった。
浅井宗吾。名古屋の製鉄所で役員を務める吉見彩紗の客のひとり。名前をクリックすると、美しい雪景色の写真が添付されていた。たしか今日は出張で東北にいるはずだった。出張先での写真を送ってほしいと昨日リクエストしたのをおぼえていたようだ。
すぐに返信する。
『きれいですね。でも宗吾さんの顔も見たいです』
おなじだけ素早く返信が届く。
『おれの顔はいいでしょ』
照れたような顔のスタンプが同時に送られてくる。
『見たいです。だめですか?』
すこし間が空いて、温泉旅館の浴衣を着た男の写真が送られてきた。
『おじさんの写真ですみません』
『そんなことないです。かっこいいです』
おじさんというが、浅井宗吾はまだ36だ。役員職に就いているのは親が社長を務める会社だからで、見た目もじゅうぶん若い。
『みんなにいってるよね。社交辞令でもうれしいけど』
『社交辞令じゃないです。ほんとにすてきです』
穴に隠れて尻尾を出す猫のイラストのスタンプが送られてきた。瞳をハートにした少女のスタンプで返す。
たしかに、みんなにいっていた。容姿を褒め、仕事ぶりを褒め、知識や経験を褒める。羨望の言葉を聞いて不快になる男はまずいない。
しかし、浅井宗吾だけはちがった。
画面をスクロールし、浴衣の宗吾の写真を自身のアカウントに転送する。すぐにスマホのロック画面に設定した。作業用チェアの上で膝を抱え、両手でスマホを握りしめ、画面のなかのはにかんだような笑顔を見つめる。
「浴衣いいなあ……」
無意識に独り言が漏れた。
かっこいいと本気で思っている。そう伝えたかったが、LINEのやりとりは芙実もスマホで確認している。返信の温度にほかの客との差があれば、疑われてしまうかもしれない。
スマホのアプリを開き、ひそかに保存してある宗吾の写真を1枚1枚見返した。どれもプライベートな写真で、自宅や外出先で撮影したものだ。おねだりすれば恥ずかしがりながらも必ず送ってくれる。
彫りの深い野性的な顔立ち。しかし性格は穏やかで、LINEの文面にもやさしさが滲み出ている。短く刈った髪は清潔感があり、浴衣の襟から覗く胸元は筋肉が詰まって張り詰めている。
まさに、「理想」という文字を人間にすればこうなるという外見だった。LINEのやりとりも楽しかった。映画や本の趣味も合い、ほかの客のように無理をして知識を入れたり誤魔化したりする必要がなかった。
実際には一度も会ったことのない「吉見彩紗」の客に、おれは恋をしていた。
芙実には知られてはならない。「吉見彩紗」はあくまでもおれたちが作り上げた虚構の存在であり、ひとりに客に入れ込むことは虚像の破綻につながりかねないからだ。
宗吾がはじめて店にきたとき、眼鏡に仕込んだカメラが写した顔を見て心臓が跳ね上がった。ふだんは名古屋に住んでいる宗吾が来店する頻度はそう多くなかったが、毎日のようにLINEでやりとりした。あまりこられないぶん一度に落とす額が大きかったから、おれが特別な思いを持っていることに芙実は気づいていないだろう。あくまでも営業として好意的な言葉を送っているだけだと考えているはずだ。
やりとりをはじめて1年ちかくになる。おれの心は揺れていた。オンラインでのやりとりやカメラを通して見るだけでは満足できなくなっていた。
宗吾に会いたい。現実の宗吾を見て、触れてみたい。
膝を抱え、スマホを握りしめたまま、おれは深夜にひとりうなだれていた。
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