未来文

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「すごいね。僕はすぐに色々忘れちゃうから、なんでもメモして残してるくらいだよ。でも、なんでも覚えていたら僕は逆にパンクしてたかもしれないから、適度に忘れられる頭で良かったのかもしれないな」  言って、彼は軽く笑っていた。たしかに、なんでも覚えているというのは良いことばかりではない。その自覚も、私にはあった。 「人は忘れる生き物って言いますしね!私だって、全部は覚えてられないです。ただ、忘れたくないものと忘れちゃいけないものを、なるべく選択して覚えるというのをいつの間にかできるようになってたというのか……もう癖になってるんですよ。覚える、というのが」 「覚えるのが癖、かぁ。仕事柄身に付いたものかもしれないね。いつもの、って頼むお客さんもいるだろうし」 「それ、ありますね」  職業病みたいなものかもしれない。そう言って、二人してクスクス笑った。なにはともあれ、牧田さんが笑っている姿を見られただけで私は心が救われる思いだった。ほんの一瞬でも、安らげる場としての”未来文”であればそれでいい。ここはそうやって使っていただけたらいいのだ。  概ね仕事が終わるのは、午後六時頃。ここは辺鄙な場所にありお店もそんなに多くはなく、その多くはないお店が皆、午後五時か六時には閉店する場所だった。遅くまでやっていると言えるのは、この間倒れたご主人がやっている旅館くらいなものだ。それでも、あそこには部屋が三つしかない。そういう場所なのだ。近所の人がほかに行く当てもなく朝から夕方までに喫茶店を使ってくれるのが有り難い、そんな場所だった。  リンリーン。 「すみませーん」  風鈴の音とほぼ同時に声が聞こえて振り返ると、旅館の女将さんだった。 「あ、女将さん」 「もう、女将さんなんてやめてくださいって言ってるじゃないですかー。働いてるの、旦那さんと私だけなんですから。ただの仲居ですよー」  言って、彼女はけらけらと笑っている。ゆるっと明るい彼女の雰囲気が好きだな、とよく思っていた。 「それにしてもどうしたんですか?お店に顔を出すなんて珍しい」  買い出しのときなどで偶然顔を合わせることはあっても、こちらに来るなんてことは滅多にない。 「この間、旦那さんが倒れたとき心配して顔出して下さったじゃないですか。そのお礼と、一応復帰のご報告です。これ、今日獲れたアジと偶然引っ掛かってきたタコですー」
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