Jヶ峰奇譚

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「冥界の食べ物ですか。イザナミも、ペルセポネーと同じなんですかね」 「状況はかなり似通っていると思います。イザナミの場合は少し条件が違いますが。黄泉戸喫(よもつへぐい)をご存知ですか? 黄泉の国の竈門で煮炊きされた物を一度口にすると帰れなくなってしまう、という話です」  ふと気付くと、辺りを深い闇が覆っていた。  おかしい。あまりにも暗すぎる。  いくら雨雲が出ているとはいえ、ここまで暗くなるような時刻ではないはずだ。  そんな状況だというのに、男は今も悠長にコーヒーを飲み続けている。どうしてそんなに落ち着いていられるのだろう。  K氏は椅子に横たわったまま、依然として回復する様子を見せていない。  いや、回復しないどころか、微動だにしていない。  まさか、と思いK氏の手首に指を当ててみると、その脈拍を感じなかった。 「どうかされました?」 「いや、み、脈が無くて」 「ああ、大丈夫ですよ。それよりコーヒーのおかわりはいかがですか」 「そんな場合じゃありませんよ! 救助を呼ばないと……!」  急いでポケットから携帯電話を取り出し通話画面を開く。しかし、どこにかけても繋がらない。呼び出し音すら鳴らない。 「死と密接な関係を持つ異界へと向かう時、神話の登場人物は坂を下りますよね。オルフェウスの冥界下り、坂上田村麻呂の地獄探し……。下山という過程も、それに似ているとは思いませんか? 不思議なもので、境界というものは認識されないと効果を発しないんですよ。扉にしろ、鳥居にしろ、この世とあの世の境ですらも」 「何を……仰っているんですか?」  男の姿は辺りの闇に紛れ、その全貌を捉えることが出来ない。  バーナーの炎はゆらゆらと揺れ、曖昧な影を映し出している。男がそこにいることはかろうじてわかるのだが、どんな表情をしているのかが見て取れない。淡々と話を続ける男の声があまりにも平坦で、それが異様だった。 「人は気付かないんですよ。とっくに足を踏み込んでいるのに。こちらに来てしまっているのに。自分が何に触れ誰と話をしているのか、認識しようとすらしない。お兄さんは先ほどから、
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