Jヶ峰奇譚

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 ハイキングにおける怪我は、登りよりむしろ下りの際に発生しやすい。重力に任せていると抱えた疲労に気づかず、足首を挫いてしまうからだ。私はK氏を先導しつつ、ゆっくりと山道を下っていった。  下りのルートに入って僅か数分で、K氏の口数は随分と少なくなってしまっていた。疲労が溜まっただろう。話を振っても明確な返答がなく、あぁ、だとか、うぅ、だとか、言語にならない返事が続く。    K氏の身体は、エネルギー切れを起こしている可能性があった。山頂でも食事を取っていなかったし、携行食を口にした様子もない。数時間歩き続ければ、体は確実にエネルギーを消費する。そうして血糖値が急激に下がると、極度の疲労に襲われるのだ。K氏には早々に食事を取らせ、休息を取らせる必要があった。  山頂にいる時には燦々と降り注いでいた陽光が、徐々に翳っていく。空を見上げると、どんよりとした灰色の雲が西の空から広がってきていた。雨が近い。どこか、屋根のある場所でK氏の体力の回復を待たなければ。  私は道中にあった東屋を目指した。古びた東屋は周囲をあの奇妙な石仏たちに囲まれていて気味が悪かったが、他に良い場所も思いつかなかった。  東屋に辿り着いた時には、既にポツポツと雨音がしていた。K氏を屋根の下に座らせ、私は自分のザックから携行食をいくつか取り出す。  「これ、食べてください」  チョコレートをK氏に手渡す。黙ってそれを口に含んだK氏は、座ったまま目を閉じて喋り出す様子もない。まずいかもしれない。そう思った時だった。  「大丈夫ですか?」  後方から声がした。振り返ると、初老の男がそこに立っていた。大きめのザックにパラソルハット。登山客のようだった。  「栄養不足になってしまったようで。休めば良くなると思うのですが」  「ああ、それは大変だ。食べものはお持ちですか?」  「簡単な携行食はあるのですが……少し心許ないです」  「なるほど。私のものをお分けしますよ。この雨では、当分山頂には辿りつけないでしょうし」  男は背中からザックを降ろし、その中からいくつか食材を取り出した。登山では自分の携行する荷物が生命線となる。食料を分けてもらえるのは、本当にありがたいことだった。  「すみません、ありがとうございます」  「いえいえ、山は助け合いですから。どうぞ、お兄さんも召し上がってください。コーヒーも淹れますので」  男が用意したのは、乾燥米を使ったお粥だった。バーナーの炎で沸かしたお湯をパッケージに注げば数分で食べられるようになる代物だ。K氏がそれをスプーンで掬って食べ始めたのを確認し、私も一息つくことにした。  差し出しれたコーヒーを受け取り、私はすこしだけ迷ったあとに口を付けた。恥ずかしながら、私はコーヒーが苦手だった。けれどここまで世話になっておいて、頂いたものを断る訳にもいかない。久々に飲んだコーヒーは、湿った土のような臭いがした。吐き出したくなる気持ちを抑え、私はそれをグッと嚥下した。
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