Jヶ峰奇譚

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「Jヶ峰は初めてですか?」  男が話しかけてくる。 「ええ。最近越してきたばかりで。景色が綺麗な所ですね」 「驚いたでしょう。山の中にこんな石仏だらけの場所があって」  私は思わず苦笑いした。 「確かに驚きました。ここは何なんですか?」 「蒐集家がいたんですよ。Kコレクションと呼ばれています。昔は展示施設だったみたいですが、今では夢の跡ですね。放置され、雨風に晒されて……」  男はコーヒーを口に運びつつ、眼前に立ち並ぶ石仏を眺めていた。どことなく哀愁が感じられる。もしやこの人が、石仏を集めた張本人なのではないか。そんな考えが頭をよぎった。 「しかしこうも沢山並んでいると少し気味が悪いものですね。何か見られているような気がして」 「ええ、見ていますよ」 「え?」 「見ています」  雨が強くなった気配がした。雨粒が東屋の屋根を打ち付けている。  空がだいぶ暗くなり始めていた。 「あそこに女性の形をした像があるのが見えますか?」  男が少し離れた場所を指し示した。  視線をやると、確かにそこには女性の像があった。着物の裾を乱しながら、何かを追いかけるように腕を伸ばしている。 「あれはイザナミの像です」 「……というと、神話の女神ですか?」 「古事記、日本書紀に記された国産みの神です。あの像は、黄泉比良坂(よもつひらさか)でイザナギを追いかける様子を再現したものです」 「ここにあるのは仏像だけではないんですね」 「ええ。古今東西、様々なものが集められたと言われています」  私は改めてイザナミの像を眺めてみた。  神話において、イザナミは黄泉の国の住人となる。妻への恋しさに黄泉の国に出向いたその夫イザナギは「けして妻の姿を見てはいけない」という禁を破ったことでイザナミの怒りを買う。あの世とこの世の境にある黄泉比良坂において、夫婦は決定的に離別する。  黄泉の国の住人となったイザナミの身体は死人と同様に腐敗していた。その姿を見られたイザナミは、恥をかかされたと大いに怒ったのだ。 「イザナミは何故、黄泉の国から帰ってくることができなかったのでしょうか」  男は私にそう問いかけた。 「死んでいたからじゃないですか? いくら神であるはいえ、死者が蘇えるのは不可能。そういうことではないでしょうか」 「ギリシャ神話にペルセポネーという女神がいます。彼女は冥界の王ハデスに連れ去られた事により冥界の住人となりますが、母神デメテルが抵抗したこともあり、冥界から現世へと帰還しました」 「神話においてこの世とあの世を行き来することは不可能ではない、ということですか?」 「ええ。ですが、そこにはルールがあります。ペルセポネーは、完全に現世に戻ることはできませんでした。彼女は一年のうち三分の一を、冥界でハデスの妻として過ごすことを神々に定められたんです」 「……何故でしょう?」  男性はザックの中をゴソゴソとまさぐり、一つの果実を取り出した。それは真っ赤に熟れたザクロだった。 「食べたからですよ。ペルセポネーは、冥界でザクロを食べたんです。冥界の食物を口に入れたものは冥界に属する。ハデスから受け取った十二粒のザクロのうち四粒を口にしたペルセポネーは、十二ヶ月のうち四ヶ月を冥界で暮らす事になりました」  男性はザクロのヘタを取り、そこにナイフの刃を差し込んだ。パックリと割れた実の中から赤い粒が大量に溢れる。こちらに差し出されたが、こんな話を聞いた後ではどうしても口にする気にはなれず、丁重にお断りした。
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