Jヶ峰奇譚

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 誰の手首を。  K氏だ。ここまで一緒に登ってきた、サークルの友人。  脈のない冷たい手首。  異様に固く、ざらりとした質感は、人間のそれとは大きく乖離している。  私はゆっくりと、その顔を覗き込んだ。  そこにいたのは、K氏ではなかった。  まして、人間ですら。  K氏がいたはずの場所には、顔いっぱいに笑みを浮かべた石仏が一体、横たわっていた。  私は叫び声をあげた。  思わず突き飛ばした石仏が、東屋の壁に地面に跳ね返って地面に転がる。  いつだ?  どこからK氏は、石仏と入れ替わっていた? 「ただただ雨風に晒された古い像は、たとえそれが仏を模したものであったとしても、『器』となるんですよ。入り込むのは難しいことではありません。ましてこれだけの数が揃えば、一時的に『異界』を形成することもできる」  登りの時から感じていた空間の気味の悪さ。その正体が、ようやく私には分かった。それは視線だった。数多の石仏が私達に向けていた視線。飢えた獣のテリトリーに迷い込んだ仔羊を、舌舐めずりしながら眺める種類のまなざし。  逃げなければならない。この男から、一刻も早く。  私は東屋を飛び出し、登山道を麓に向けて走った。  暗い山道の足元は悪く、何度も転倒とした。それでも這いずり回るようにして、ただ一心不乱に下へと向かった。
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