Jヶ峰奇譚

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 何十分、何時間、逃げ続けただろう。暗くなった山中では、既に自分がどこにいるのか分からない。山道を外れてしまったのか、一向に登山口に辿り着ける様子がなかった。  酷く喉が渇いていた。  ザックは東屋に置いてきてしまった。もう随分と長く水を飲んでいない気がする。最後に口にしたのは、あの男性が用意したコーヒーだった。まだ舌の先に、あの土くれのような風味が残っている。 「もう疲れたんじゃないですか」  どこからともなく声がした。  男の声だった。  私の視線の先にぼう、と灯りがともる。それはゆらゆらと揺れ、暗闇の中から滲み出すように男の姿を照らし出した。  カチャリ、という音が聴こえる。灯りの正体はバーナーの炎だった。あの東屋に置いてきたはずの男が、目の前で悠々とお湯を沸かし、コーヒーを淹れる用意をしている。 「いかがですか。喉も渇いたでしょう」  この男はいったい何者なのか。  その場を脱しようと試みたが、私の手足は既に動かなかった。トリモチのように粘りついた辺りの闇が、四肢に重く纏わり付いていた。 「もう戻ることはできません。あなたは私の淹れたコーヒーを口にした。イザナミの話を覚えていますか? 黄泉の国で煮炊きしたものを一度でも食せば、黄泉の国の住人となる」  黄泉戸喫(よもつへぐい)。この世とあの世の取り決め。私は、自分の身体から力が抜けていくのを感じた。男から受け取ったコーヒー。土のような臭い。舌に纏わりつく苦み。あれはコーヒーの味ではなかった。腐った屍肉と骨が溶け込んだ、墓土のそれだった。  呆然とする私の口内に、熱い液体が無理矢理に注がれる。  腐臭を漂わせたそれは、口腔内をまっすぐにくだり、臓腑に染み込んでいった。熱かったはずの液体が、腹の中で急激に冷えていく。 「お兄さん、あそこをに人の姿が見えますか?」  男の示した方向を見る。  私の周囲は依然として闇に包まれていたが、男の示す先は、違う世界であるかのように明るい陽射しに照らされていた。いや、文字通りにそこは違う世界だった。異界に踏み込んでしまったのは、むしろ私の方であった。  陽射しの中を歩くのは、見覚えのある二人の男だった。  一人は友人のK氏。もう一人の姿にも覚えがある。背格好、着ている服、使用しているザック。その全てが私と同じだった。  私ではない私が、陽光の中を歩いてK氏と共に下山していた。 「お兄さんの身体、使わせていただきましたよ。ここにはまだ、依り代を欲しがっている仲間が山のようにいるのでね。なに、順番が来れば、あなたもまた器を得ることができますよ。果てしない順番待ちの最後尾にはなりますがね」  男の声が徐々に遠くなっていく。もはや私には体のあらゆる感覚が無かった。私が肉体だと思っていた外殻の名残は闇に溶け込み、脆く崩れ去っていった。消えゆく私は闇の波間を漂い、そしていつか沈んでいった。  ※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
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