Jヶ峰奇譚

8/8
前へ
/8ページ
次へ
「これ、ホラー小説じゃないですか!」  ページを閉じ、僕はそう言った。 「そうなんです!登山記と思わせておいて実は恐怖体験記! という構成にしてみました。どうですか? 面白かったですか?」  蛯原氏はニヤニヤと笑みを浮かべている。自信作だったのだろう。 「びっくりしましたよ。ここで書かれた僕、途中で死んじゃうんですもん」 「まあまあ。本物のK氏は無事に下山できたということで、それでいいじゃないですか」  蛯原氏はガハハと声を上げて笑った。  つられて笑みを浮かべながら、僕はふと考える。  こんなに笑う人だっただろうか。  これまでの読書会で本の話をしていた時と少し印象が違う気がする。  山を登った時と比べてもそうだ。道中、何時間も一緒に歩いたが、蛯原氏はどちらかと言えば口数が多い方ではなく、朴訥な印象を受けた。  もう一つ、気になることがあった。  蛯原氏はコーヒーが苦手だと言っていた。  それは蛯原氏の小説の中でも言及されていたし、僕自身もJヶ峰の山頂で彼の口から聞いたことだった。味も香りも苦手で、自ら飲むことはほとんど無い。そう恥ずかしそうに答えていた様子を覚えている。  なのに今、目の前にいる蛯原氏は、コーヒーを美味そうに啜っている。  この喫茶店に入ってすぐに感じた違和感だった。  飲み物の好みが変わった、というだけの話なのかもしれない。けれどこの小説を読み終えた今、いくつかの点がつながり、僕の頭の中にはあるひとつの荒唐無稽な仮説が浮かび上がっていた。  そんなはずはない。そんなはずはないのだけれど。  この小説に書かれていたことが、本当に起きていたのだとしたら。僕が元々知っていた蛯原氏は、あのJヶ峰の異様な空間に、今も囚われているのだとしたら。あそこにいた得体の知れない何かが、蛯原氏の身体に入り込んでしまっているのだとしたら。 「それにしても、Jヶ峰はよかったですねえ。また行きましょうよ。今度はみんなも誘って。人数は多ければ多いほど良いと思うんですよ。どうですか?」  目の前に座る蛯原氏はコーヒーカップを片手に満面の笑みを浮かべている。  その笑顔は、あの奇妙な山道に並んでいた石仏の表情とダブって見えた。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加