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帰ってきたミスター
今日はあの男がやってくる。最後のチャンスをどうやらものにしたようだ。いい仕事をしたとは思わないが、これも世のため人のためだ。何より彼のためでもある。存在するものにとって忘れされることは何よりの恐怖である。忘却の彼方とはすべてを無にする虚無の空間である。かつて多くのものがそこに追いやられていった。
そうしたものは一度失われると二度と復活することはない。不公平と言われようが、これが我々の仕事なのだ。
私は一人、机の前に座り、見事に最後のチャンスを手にした男を待っている。白い空間に扉が現れ、ゆっくりと開く。そこには一匹のタヌキが不安げに二本足で立っている。ここではそれが普通だ。
「ようこそミスター。どうやらうまく行ったようで何よりだ」
「初めまして、どこでお会いしたのかまるで覚えていないのですが、ここはどこですか」
「覚えていないのも仕方がない。ここではそれがルールなのだよ、ミスター」
オスのタヌキに向かって手招きをすると彼はゆっくりとこちらに歩み寄り、勧めた椅子に可愛らしく座った。
「これまで君は、おじいさんの畑の作物を盗みながら飢えをしのいできた。カチカチ山の近くは食べ物が不足がちだ。みな、生きるのに必死だ。人も生き物も。おじいさんは罠を仕掛け、君を捕まえて狸汁にして食おうとした。そこで食われても因果応報。我々は関与しない。しかし賢い君は、おばあさんを騙し、見事脱出に成功した。これもまた生きる上で必要なことだ。だが君はその腹いせにおばあさんを殺し、さらにそれを狸汁と偽っておじいさんに食わせ、精神が崩壊してしまうほどにまで追いやった。これはやりすぎだ。その場合、君の魂は煉獄に送り、それ相応の報いを受けることになるわけだが、ここにひとつ問題が起きた。それはたまたま通りかかったウサギがおじいさんの話を聞いてひどく同情し、過剰なまでの罰を君に与えた。本来、人をも騙す君の知能であれば、背中に火をつけられたり、その傷口に塩を塗られたり、果てには泥の船を作って漁に出て沈み、その上ウサギに櫓で叩き殺されるというのは犯した罪に足して罰が過剰すぎるのではないかと我々は考えていたのだよ」
タヌキは黙って話を聞いている。聞いているが目には涙が浮かび、今にもこぼれそうである。
「君には何度かチャンスを与えた。おばあさんを汁にさえしなければ、あの展開にはならないと考えたからだ。そして賢い君は、ウサギに一度は騙されても命を落とすことにはならないだろうと考えたのだが、どういうわけか、君はどうしたってウサギに騙される。君にはわからないと思うが、これは結構な物議になっているのだよ。このままでは子供たちにとってふさわしい物語ではないと、語り継がれなくなってしまう。それでは我々も困ってしまう。わかるかい、ミスター」
タヌキは涙を拭きながら自分のふがいなさを恥じ、謝罪をした。そして最後のチャンスを与えてくれたことに感謝の意を表し、その場を後にした。
「生まれ変わった君は、きっとみんなから愛されるだろう。それは多くの幸せに取って、とても大事なことなんだよ」
何度も深々と頭を下げ、タヌキは扉から出て行った。
「これで一安心、我々も命拾いをしたというものだ」
黒い紳士はかぶっていた黒いフェルトハットを取り、帽子で顔を仰いだ。
その頭にはピンと伸びた白い耳が立っている。これでウサギも子供たちからやりすぎだと言われずに済む。かくして物語は改変され、タヌキはおばあさんを殺めることなく、ウサギもタヌキを懲らしめた後にみんなで仲良く暮らす世界線へと移行した。
こうしてタヌキは四度、ウサギに騙されたのであったとさ。次世代につづく。
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