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白い部屋の黒の紳士
目の前に一人の男が座っている。見たことのないような恰好をしているが、ぼくはそれがなんであるのかを知っている。真っ白の部屋、いや、窓も扉も壁もない真っ白な空間に一人の紳士が座っている。それらしく黒のフェドラハットをかぶり、大き過ぎずも、小さ過ぎずもなく、仕立てたような黒のスーツ。しわのない白いシャツに黒の蝶ネクタイ。両肘を机に置いてひどくとがった顎の前に両手を重ね、机の下では足を組み、微笑みかけるでもなく、招かれざる客をどう追い払おうかと算段しているふうでもなく、ただじっと、こちらを見ている。
「待っていたよ、ミスター。いや、待ってはいなかったのだがいつものとおりに知らせが来てね」
男は組んでいた足を言葉のリズムに合わせて揺らしながら、右手を軽く前に差し出し、近くに来るようにぼくを促した。
「はじめまして、どこかでお会いしましたか? ぼくにはとんと記憶にない」
黒の紳士に見覚えはないが、相手の様子からこちらのことを知っているのはうかがい知れた。ぼくはゆっくりと相手をいらだたせないように顔がはっきり見える距離まで歩み寄った。
「それはそうとして……、ああ、つまり記憶がないのは当然としてということなのだが、ようこそミスター。君に話がある」
回りくどく単刀直入な態度にはどこか覚えがある。しかし記憶のどこにも黒の紳士は見当たらなかった。
「この話をするのは今回で最後になる。ミスター。つまりチャンスはあと1回ということなのだが、そういうわけでいつも通り必要なことをまず説明しよう。この話をするのはもう7度目なのだけれども、君がそれを覚えていないということは承知しているし、私は誰にでも公平に、そしてできるかぎり公正に仕事をしている。とはいえ、これが最後となれば心に期するものがある。だから心して聴いてほしいのだよ、ミスター」
近くで見ても男の顔に見覚えはない。特徴的なとがった顎、やや吊り上がったように見える大きな口、鼻は大きくも小さくもなく印象に残らないし、細い眼は不気味なくらいに無表情だ。
「そんなわけでミスター。少し話は長くなる。まぁ、かけたまえ」
黒の紳士は丁寧な口調で椅子に座るように右手で促した。近寄るまで気づかなかったが、ぼくの後ろに椅子がある。言われるがまま、その椅子に腰かけた。座ってみてわかったのだが、ぼくの目線が上を向いている。黒い紳士はぼくよりも身長が高いらしい。
「結構、きみという人は」と黒の紳士が話し始めたが、なにか気になることがあるのか、彼なりの流儀に反する物言いだったのか、一度咳払いをして仕切り直した。
「ミスター、きみはどうにもお人よしが過ぎる。本来疑うべきことも真に受けて考えなしに行動する癖があるね。これを美徳とする考えもあるとしても、それで命を落としてはつまらないとは思わないかね」
黒の紳士が言っていることはわかる。しかし、何のことを差してぼくをお人よしと言っているのか、まるで思い当たらない。いや、思い当たらないというよりもぼくにはあるべきぼくの記憶がない。
「その通りだよ、ミスター。ここに来るものはそれまでの記憶をすべて失っている。それがルールだから仕方がないのだが、どんな者にもチャンスは7回与えられる。多くはその回数を使い果たすことなく、次のステップに進む。そして稀に……、そう、君のように回数を使い果たし、我々の手を煩わせる者がいるのだが、我々としては、君の魂をあちら側に引き渡すことを良しとはしていないのだよ。だからミスター。今回は少々、シナリオを変えることにした。悪く思わんでくれ」
どうやら自分は失敗をしたらしい。それがどんな愚鈍なことなのか、まるで記憶がないのが悔やまれるが、どうやらいろいろな方面に迷惑をかけたらしい。これは言い訳ができない。指示し従うしかないだろう。
「誰もが生きるために必死だ。それは尊重されるべきだ。しかしだね。ミスター。君はやりすぎた。年老いた人を殺めたのは正当防衛を主張できる案件ではあるが、それにしてもその亡骸をあんなふうにしてしまっては、恨みを買うのも仕方あるまい。それならそれで、あっちに君の身柄を引き渡すのはしかたのないことなのだがね。君はある相手には狡猾で残忍でありながら、心を許した相手に対しては愚直すぎるにもほどがある。もはや見ていて哀れだ。君のしたことは償うべき残忍極まりないことだが、その報いとしては、いささか罰を下す側にも過剰と思えるところがある。よって我々は君の記憶にちょっとした細工を施すことにした。これは公平ではないまでも公正ではあるだろうというのが我々の出した結論だ」
それから黒い紳士はあれこれと書類をみせてぼくにサインを迫った。彼はいたって紳士的かつ事務的にそれらをこなし、最後は満足げにぼくを出口まで案内してくれた。
「さぁ、これが最後の1回だ。間違わないようにミスター。成功を祈っているよ。いや、これは失敬。我々は何も知らない。ここでは何もなかった。そういうことにしてくれ。わかるだろう、ミスター」
その扉は出口であって入り口でもある。次にここに来た時には、別の自分でありたいものだ。そうでなければ、彼らの言う「あちら側」に引き渡されてしまう。黒の紳士に案内されるまま、ぼくはその部屋をあとにした。
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