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その後、教室に行くまでの道中、『もしかしたら自分が見たのは幻覚で、あれは自分の同人誌ではなかったかもしれない』などとよく分からない思考に陥り、もう一度女子トイレの個室で確認することにした。
『三月の蜩 桜田あや』
あぁ、私だ。
完全に私のだ。
ペンネームを付けるのがなんだか気恥ずかしくて、あろうことか本名、個人情報ダダ漏れだ。
「最悪」
一体、誰がこんなものを。
たちの悪い悪戯や、ましてやいじめでも始まろうとしているのだろうか。
ただでさえ学校は恐怖の巣窟なのに、これ以上恐怖要素を増やさないでほしい。
残り半年の高校二年の学校生活、できれば穏便に過ごしたい。
そう思う一方で、緊急信号が発せられた脳内では先取りして悪い想像が膨らみ、どうしようどうしようと叫んでいる。
焦る気持ちを落ち着けようと、意味もなくパラパラとページをめくっていると、あるページで手が止まる。
というか、勝手にページが止まった。
白い封筒が挟まれていたのだ。
表紙には『桜田あや様へ』と書かれていて、裏返には『橘』と名字だけが記されている。
(橘……? っていうか私宛?)
驚きつつも、しおり代わりか、あるいは封筒が曲がらないように同人誌に挟んでおいたなら『橘』という人物がこの同人誌の持ち主なのだろうかと考える。
「橘って誰。クラスメイト……?」
頭を捻って思い出してみるが、休み時間に絵ばかり画いている自分が、クラスメイト全員の名前と顔を覚えているはずもなく、すぐに判断できなかった。
――と、
ふと思いついて鞄からこの前あった体育祭の出場科目の名簿を取り出し、名前を照らし合わせてみる。
「橘……、橘……」
ぶつぶつ呟きながら指で辿るが、男子にも女子にも「橘」という名字の生徒はいなかった。
名簿を鞄に戻して抱え、便器の背面にもたれかかりもっとよく考えてみる。
(そういえば昨日、保健室のベッドで休んでいた人がいたな……)
昨日の放課後、部活中に彫刻刀で指を切ったとき。
誰かがカーテンを引かれた向こうで眠っていた。
そのベッドの棚の上にこれが置かれていたということは、あそこで眠っていた人が持ち主かもしれない。
(シューズの色が青だったから、同じ学年……)
高校二年生のクラスは七クラスある。
「各クラスに友達なんて、いなよ……」
どうしたものか。
思いつく限り、私にとれる手段は一つだけだった。
普段もくもくと作業をしていて話すことのない美術部員に、『橘』という生徒を知らないか尋ねてみる他ない。
「はぁ……。人と話すの、気が重い……」
けれどまったくの初対面の同級生に話しかけるよりはマシだと、私はぬるく温まったお尻を便座から上げ、とぼとぼと女子トイレを後にした。
* * *
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