夏の遺影

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午前中は授業に身が入らなかった。 昼休み、友達から顔色が悪いから早く帰んなと言われ、学校を早退することにした。 家に帰るとおばあちゃんがいた。 体調不良を伝えると、ハチミツと大根を買ってくると言って出かけていった。風邪に効くというハチミツ大根をつくってくれるつもりだろう。私はあれが得意じゃない。ハチミツが水っぽくなるのも、大根が甘くなるのも嫌だった。 しばらく自室で横になっていたが、どうにも眠れなくてアトリエへ向かった。気になることがあったのだ。 暑さのために、さらに気分を悪くしながら、手当たり次第スケッチブックを漁る。これじゃない、これも違う。何冊か広げたあと、A4サイズのものを手にとった。 「これだ……」 私は夢中でページをめくった。 懐かしい。見覚えのある素描き。 今見ても、こんなにわくわくさせてくれる。 後ろのページには、9歳の私が描かれていた。私はおじいちゃんから、こんなふうに見えていたのか。そのことを改めて知る。 そうだ、私はおじいちゃんにお願いしたのだった。 あと一回。 カイちゃんを描いてあげて、と。 だから次のページには、赤ちゃんの海がいるはず。まだずり這いしかできなかった、小さな私の弟がーー。 「どうして」 鳥肌がたった。 海の顔がなぜか塗りつぶされている。執拗に、黒い鉛筆で。この異様な絵は何なの、誰がこんなことをしたの。 私は吐き気をこらえた。ふらりと立ち上がり自室へ戻ろうとしたが、途中で膝の力がぬけてしまった。 すぐそばに、お母さんの肖像画が立てかけてある。 これを描き写したら、おじいちゃんのことが少しは分かるんだろうか? 「夏子を殺した」と言った、おじいちゃんの言葉の意味が。 衝動的に、手近なスケッチブックを手繰り寄せ、夢中で鉛筆を走らせる。お母さんの輪郭、お母さんの視線、お母さんの影……。 そうすると、次第に身体が軽くなっていく心地がした。軽くなって、ずっと軽くなって細くしわくちゃになって。 いつしか私はになっていた。 目の前には、赤ちゃんを寝かしつけるお母さんがいる。
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