夏の遺影

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「夏子さん、それは本当に陽介の子かね」 が口を開くと、(しわが)れた老人の声が漏れ出した。   「えっ?」 目の前には夏子さん(おかあさん)がいる。 彼女は、二階のアトリエで寝入る海のお腹を、優しい手つきで撫でている。 「何を突然。お義父さん、当たり前のこと言わないでください。この子は陽介さんの子に決まっています」 「わたしの目は誤魔化されんぞ。本当のことを言いなさい」 彼女は気色ばんだ表情を見せた。   「いくらお義父さんでも失礼ですよ。どうしてそんな突拍子もないこと思ったんです。この子が陽介さんとの子じゃない証拠でもあるんですか?」 「ある。あるに決まっとる。魂のかたちに異物が紛れ込んどるからな。初めて海を見たときは、わたしの勘違いかと思った。だがこうして筆をとり、赤ん坊に向き合ってみると分かるのだ。海には息子の……陽介の片鱗がない」 視線を落とすと、何も知らずに寝息を立てる海がいる。 「私が……不貞を働いたと? お義父さんはそうおっしゃるんですか。魂のかたちだなんて、そんな胡散臭(うさんくさ)いものを引き合いに出して。勝手な思い込みです、いい迷惑だわ」 「ならばDNA鑑定してみるか? 何も思うところがなければ安いものだろう」 その途端、女の顔色が変わった。 「そっ、そんなことをしても、誰も幸せになんてなれないわ。それに陽介さんだって承知の上だもの。あの人はそんなこと気にも留めないんだから」 立ち上がり地団駄を踏む女性は、絵画の中の美しい母親の姿とは似ても似つかなかった。 それを目の当たりにして、心の内から湧き出たのは途方もない怒りと嫌悪感だった。   「あんたは悪いやつだ。夫を裏切り、奈帆を裏切り、このわたしをも裏切った。ああ、この目も曇ったものだ。夏子さん、わたしは、あんたを美しいものと信じてこの手で描いた。なのに。わたしは……わたし自身が許せない」 ぐ、と背中を丸めたは、おもむろにイーゼルを持ち上げた。大きく振り上げて、女の前にかざす。 ーーガシャン! 大きな音がして、ブランケットに包まれた海が火がついたように泣いた。 女は悲鳴をあげて、赤ん坊をそこに置いて逃げ出した。階段を駆け下り、恐怖に駆り立てられるまま、家の外へーー。 赤い車が、女の身体を飛ばした。
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