35人が本棚に入れています
本棚に追加
ふたりで室内へ戻ると、埃が斜光に照らされて舞っているのが見えた。
浮かない顔の海を少しでも元気付けたい。
そう思った私は、アトリエの片隅にひっそりと立てかけられた、キャンバスに向かう。キャンバスには薄紫の布がかけられている。
私はその布をそっと引いた。
現れたのはひとりの女性の肖像画。
黒々とした瞳がこちらを流し見ている。
ゆったりと笑みを刷く唇や、首筋に落ちる髪が艶やかな油絵。
「お姉ちゃん、これ」
「私たちのお母さん。海はこの絵を見るのは初めてよね。おじいちゃんが描いたんだ。お母さんが海を身籠る前から描きはじめて、出産後にやっと仕上げたの。だからほらここ、ちょっとお腹が膨らんでるでしょ」
海は目を細めたが、すぐに首を傾げた。
あるかないか膨らみだから、ブラウスのたわみなのか、妊娠のせいなのか判別がつかなかったようだ。
「すごく綺麗な人だね。もしかしたら、写真で見たお母さんよりも」
「ふふ。そうね、おじいちゃんの筆は、綺麗なものしか残さないから」
それがおじいちゃんのこだわりだった。
人であろうと獣であろうと、物であろうと。
深淵に隠された本来の姿があると信じて、自ら美を感じたものを選び抜いて描いていた。
「僕は、お母さんよりお姉ちゃんのほうがいい。だってお母さんて言われたってよく分かんないし」
「それ外で言うとシスコンだと思われるから、やめな」
喉元で笑いたいのをこらえた。
この薄暗い古家では、私が海の支えであり、海が私の支えであったのだ。
最初のコメントを投稿しよう!