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洗濯カゴを手に一階へ降りると、おばあちゃんが夕飯の支度をしていた。
「奈帆ぉ、ちょっとこっち、手伝ってくれる」
台所から振り向きもせずに声をかけられて、私は海と目配せした。
海は洗濯カゴを居間に置いて、そろそろと退散する。
私はエプロンを腰に巻いて、おばあちゃんの横に立った。何を手伝って欲しいとも言われないので、シンクに重なっているフライパンや鍋を洗う。
「さっきはキツく言ってしまったけど、奈帆のために言ったんだからね」
ボソボソとした話し声に、私はまた蒸し返す気かとうんざりした。
「分かってるよ。絵より勉強でしょ」
「分かってない。ぜんぜん、分かってないよ。絵描きは見なくていいものまで見てしまうの。それでおかしくなるのよ。それが不幸のもと。あんたのお母さんが死んだのだってーー」
私は思わず後ろを振り向いた。
幸い、海は自室に引っ込んだあとだった。
お母さんは事故で死んだ。
父からも医者からもそう聞いた。
聞いた……というのは、事故当時小学生だった私は、学校で授業を受けていたからだ。
事故現場は家の前。
家を出たところ、前の通りで車に撥ねられたらしい。私が病院に駆けつけた頃には、お母さんは亡くなっていた。
それ以来、おじいちゃんは絵を描かなくなった。
二階から降りてくることも少なくなり、食べるのを拒否し、筋肉が痩せ衰え、眠るように静かに息を引き取った。病気ではなかった。身体はどこも悪くなかった。自ら衰弱死を選んだように見えた。
ーー夏子は、わたしが殺した。
ベッドに横たわる老人が、最期に残した言葉。
夏子はお母さんの名前だ。
お母さんは事故で亡くなったはずなのに、おじいちゃんは自分が殺したと言った。
その言葉を聞いて、9歳の私はひとり身をすくませた。
そして、この出来事をできるだけ胸の深いところに隠してしまおうと決めた。
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