18人が本棚に入れています
本棚に追加
2、足跡
「ミハルは、死ぬのが怖くないと言ってました」
職員会議の終わった廊下でコウ先生を呼び止め、淡々と打ち明けた。
死ぬのが怖くないというのは、死を考えたことがあるとも受け取れる。
だが、死を考えたことのない思春期などあるだろうか。
どう思いますか、と目で尋ねる先のコウ先生も、うーんと深く唸っている。
「それが、気持ち悪くないかとも訊かれました」
「……雑談のようにも聞こえるなあ」
もう一度のうーんを挟んだコメントに、そうですね、と同意する。
ミハルはいつもそんな感じだと、会議中にも聞いた印象を繰り返し、家庭の様子や、他の生徒についての情報もいくつか交換して、コウ先生との会話はそこで切り上げになった。
保健室に戻り、窓を開ける。
登校してくる生徒たちの波ももうすぐ終わりのようで、門から校舎へと流れていく喧噪を、日増しに強くなっていく陽射しが明るくそそのかしている。
あと数日で、夏休みだ。
ミハルは、一足先に休暇を始めることにしたのかもしれない。
学校は、教師は、子供たちを守る立場だ。そんな事なかれ主義はふさわしくないと思いながらも、クラスも教科も持たない自分には、なんの手の打ちようも、役割もない。
まだ少しは涼しい風に煽られ、まとわりつくカーテンを手で退けて、デスクへと足を向けた。
結局、生徒たちが夏休みに入る四日後になっても、ミハルは戻らなかった。
昨日からはすでに、警察も動き出している。教員も手分けして街を見回り、報告を寄せることに決まった。
部活の生徒たちもいることだしと、しばらくは出勤して、縄張りたる保健室で仕事をすることに決める。
訪問者は目に見えて少なく、おかげで溜まっていた事務処理がはかどる。
「やーば。めちゃ気持ちいい」
洗面器に氷水を作り、突き指したという生徒の手を冷やさせれば、喜色の混じる声に思わず口角がゆるんだ。
「暑いもんな」
「それ。体育館エグいよ。先生も行ってみなよ」
仕事が溜まってるからなあ、と笑いながらデスクに戻る背に、言い訳だあーと調子を合わせるような声が投げかけられる。
全校が一斉に授業をしない、夏休みの学校は、意外に賑やかだ。
開いた窓から、少しぬるい風と一緒に、厳しい掛け声や笑い声、ふざけて上げているらしい奇声が遠く、流れ込んでくる。
「先生もさあ」
掛けられる声に、うーん? と、先に声だけをやって耳を傾け。
「夜とかミハルのこと探してくれてんの」
先に顔だけ振り返って、それから椅子ごと身体を向けた。
洗面器に向けてうつむいた横顔を、耳辺りの高さの、真っ直ぐな髪が隠している。
「探してるよ。先生全員で探してる」
警察も、家の人も、とは、まだ言わなかった。なにも言わない。
口火を切ったのは彼女だ。
「……臥竜城、見たいって言ってた」
ゾッと、うなじに鳥肌が立つ。
最悪、と、頭に浮かぶ二文字を打ち消し、ため息を腹に隠した。
「できれば、あそこへは行っていないで欲しいな」
うん、と、サラサラとした髪がうなずいた。
「すごく行きたそうだった?」
揺れて落ちる髪は、ひとすじ、ふたすじ。
こぼれ落ちたのは風のせいで、彼女は動いていなかった。
「……わかんない。近くで見て描きたいって。何回かは、写真見て描いてた」
「絵を描いてたのか、ミハル」
うん、と、今度は顔を上げた彼女の笑みは、眉宇の下がった苦いものだ。
「上手いよ、かなり。キモいやつばっかだけど」
キモいのか、と調子を合わせて返すように笑いながら、指は? と、声を向けてみる。
感覚なくなった、と、口角を下げて歯を見せるのに、テーピングしとくかと尋ねて、備品棚に向かった。
行かなくてはいけない。
少なくとも、誰かが。
窓枠に頬杖をつき、移り変わっていく景色を眺める。
住居と学校のある八百石区から鉄道に乗り、高い建物が次第減って、賑やかな通りを広く見渡す商業区域である門前区を抜けていくと、七里川を渡る鉄橋へと差しかかった。
閉扇市の終わりと、切壁市の始まりを示す標識が、一瞬で過ぎていく。
きらきら光る夏の川の岸に、小石よりもゴツゴツした岩場が目立つようになり、この勾配を上がりきったところで、終点の淦門区に到着した車両が、ガタンと腰を据えた。
川を渡った隣の市の淦門区も、門前と同じ商業地域と呼べるが、規模、価格ともにわずかに小さい。
同じものを安く売っていれば淦門区が有利となるが、残念ながら質も下がる。
ただ、門前区の賑やかさとはまた違う、雑多さや荒っぽさには独特の雰囲気があって、根強い客も多い。
それに、と。
露店でタコの唐揚げとビールを買い、今いる淦門区のさらに先を見上げた。
川から離れて次第に斜面をきつくしていく山に、張り付いて這い上がっていく灰色のモザイクのような家々。
家、と呼べるものがどのくらいあるのか分からないが。
山の向こうになって見えない陸の端、断崖を背にして堅牢な城が築かれていたのは、もう千年以上も昔だ。
小さな島国とはいえ、今はひとつの国である波照がまだ五つの小国だった頃、その内の一国の主が居を構えていたのだという。
断崖を背にして山腹の勾配を自然の防壁とした、臥竜城は今はなく、“臥竜城区”と地名にその名だけをとどめている。
そして、その名に相反して、現在の臥竜城区は、一言で言うなら、掃き溜めだ。
歴史に揉まれる波照の中で、臥竜城もまた、波乱に富んだ栄華と衰退を繰り返した。
繰り返す戦の果てに国は境を変え、城は主を失った。
住む者が去り、別の者が訪れ、国に接収された後も、戦争で勢力図が変わり、支配者が変わるたびに少しずつその形を変え、かつての姿を失っていった。
近代では高級別荘地になったこともあるが、大戦の後はそれも廃れて、難民と貧困と民族対立の逃げつく先になったと聞いている。
そして今は、かつての城砦跡、その後にあった、山の下からは見えない別荘地はもぬけの殻となり、違法建築が膨れ上がっていた。
夏山の青さを押し返す勢いで雪崩れ広がるゆがんだ建物たちは、皮肉なことに、ねぐらにとぐろを巻いて臥せる龍のように見えた。
かつて存在したという城のように。
そこが今、どんな様子になっているかなどと、考えたこともない。
歴史の複雑さの分、描けば深みのある絵になるのかもしれないが、若い女性が近づくようなところとは思えない。
見上げて描くのならここだろうかと、八百石よりは十分に治安の低そうな淦門区の露店街に目を戻した。
「ごちそうさま」
掛けた声に、はいよと応じる主人が、一瞬チラと視線を寄越す。
尋ねてみようと目を向けていなければ、見逃しただろう速さだった。
「八百石から来たのか?」
目が合った弁明のように掛けられた声に、うなずく。
「そう。人を探しにね。女の子が川を渡ってこなかった?」
閉扇市でもなく、川縁の門前区でもなく、八百石と言い当てられた。
身に着けているものか、雰囲気か、もしかしたら間抜けそうにでも見えたのか、ともかく自分は“よそ者”だと判るらしい。
それなら、ミハルがここを通っていれば、同じように目についたのではないだろうか。
そうして向けた問いに、主人は軽く鼻で笑った。
「冗談だろ、そんなもん毎日何人も来るよ。川の向こうからこっちに来る用なんか、あるわけねえと思ってんのか?」
とっさには反論が出なかった。
「……そんなことはないけど」
ウソだ。
「学生なんだ。僕は学校の教師」
思わず口をついたウソを塗り替えるように、本当の事情を打ち明ける。
が、なるほどねえ、と頷く主人の反応は良いとはいえない。
鼻から息を抜くようにしながら、通りを見回す。
想像していた以上に人通りがあるのは確かだ。老若男女の偏りも目につかなかった。
そう考えたちょうどその瞬間、ドキリと跳ねた鼓動が神経に刺さる。
「なあ」
掛ける声に、アン? と、荒っぽい発音で答えた主人の声は、まだいたのかと言わんばかりだ。
最初のコメントを投稿しよう!