2、足跡

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2、足跡

「ミハルは、死ぬのが怖くないと言ってました」  職員会議の終わった廊下でコウ先生を呼び止め、淡々と打ち明けた。  死ぬのが怖くないというのは、死を考えたことがあるとも受け取れる。  だが、死を考えたことのない思春期などあるだろうか。  どう思いますか、と目で尋ねる先のコウ先生も、うーんと深く唸っている。 「それが、気持ち悪くないかとも訊かれました」 「……雑談のようにも聞こえるなあ」  もう一度のうーんを挟んだコメントに、そうですね、と同意する。  ミハルはいつもそんな感じだと、会議中にも聞いた印象を繰り返し、家庭の様子や、他の生徒についての情報もいくつか交換して、コウ先生との会話はそこで切り上げになった。  保健室に戻り、窓を開ける。  登校してくる生徒たちの波ももうすぐ終わりのようで、門から校舎へと流れていく喧噪を、日増しに強くなっていく陽射しが明るくそそのかしている。  あと数日で、夏休みだ。  ミハルは、一足先に休暇を始めることにしたのかもしれない。  学校は、教師は、子供たちを守る立場だ。そんな事なかれ主義はふさわしくないと思いながらも、クラスも教科も持たない自分には、なんの手の打ちようも、役割もない。  まだ少しは涼しい風に煽られ、まとわりつくカーテンを手で退けて、デスクへと足を向けた。  結局、生徒たちが夏休みに入る四日後になっても、ミハルは戻らなかった。  昨日からはすでに、警察も動き出している。教員も手分けして街を見回り、報告を寄せることに決まった。  部活の生徒たちもいることだしと、しばらくは出勤して、縄張りたる保健室で仕事をすることに決める。  訪問者は目に見えて少なく、おかげで溜まっていた事務処理がはかどる。 「やーば。めちゃ気持ちいい」  洗面器に氷水を作り、突き指したという生徒の手を冷やさせれば、喜色の混じる声に思わず口角がゆるんだ。 「暑いもんな」 「それ。体育館エグいよ。先生も行ってみなよ」  仕事が溜まってるからなあ、と笑いながらデスクに戻る背に、言い訳だあーと調子を合わせるような声が投げかけられる。  全校が一斉に授業をしない、夏休みの学校は、意外に賑やかだ。  開いた窓から、少しぬるい風と一緒に、厳しい掛け声や笑い声、ふざけて上げているらしい奇声が遠く、流れ込んでくる。 「先生もさあ」  掛けられる声に、うーん? と、先に声だけをやって耳を傾け。 「夜とかミハルのこと探してくれてんの」  先に顔だけ振り返って、それから椅子ごと身体を向けた。  洗面器に向けてうつむいた横顔を、耳辺りの高さの、真っ直ぐな髪が隠している。 「探してるよ。先生全員で探してる」  警察も、家の人も、とは、まだ言わなかった。なにも言わない。  口火を切ったのは彼女だ。 「……臥竜城(がりゅうじょう)、見たいって言ってた」  ゾッと、うなじに鳥肌が立つ。  最悪、と、頭に浮かぶ二文字を打ち消し、ため息を腹に隠した。 「できれば、あそこへは行っていないで欲しいな」  うん、と、サラサラとした髪がうなずいた。 「すごく行きたそうだった?」  揺れて落ちる髪は、ひとすじ、ふたすじ。  こぼれ落ちたのは風のせいで、彼女は動いていなかった。 「……わかんない。近くで見て描きたいって。何回かは、写真見て描いてた」 「絵を描いてたのか、ミハル」  うん、と、今度は顔を上げた彼女の笑みは、眉宇の下がった苦いものだ。 「上手いよ、かなり。キモいやつばっかだけど」  キモいのか、と調子を合わせて返すように笑いながら、指は? と、声を向けてみる。  感覚なくなった、と、口角を下げて歯を見せるのに、テーピングしとくかと尋ねて、備品棚に向かった。  行かなくてはいけない。  少なくとも、誰かが。  窓枠に頬杖をつき、移り変わっていく景色を眺める。  住居と学校のある八百石(ヤオイシ)区から鉄道に乗り、高い建物が次第減って、賑やかな通りを広く見渡す商業区域である門前(トマエ)区を抜けていくと、七里(シチリ)川を渡る鉄橋へと差しかかった。  閉扇(トセン)市の終わりと、切壁(キリカベ)市の始まりを示す標識が、一瞬で過ぎていく。  きらきら光る夏の川の岸に、小石よりもゴツゴツした岩場が目立つようになり、この勾配を上がりきったところで、終点の淦門(アカト)区に到着した車両が、ガタンと腰を据えた。  川を渡った隣の市の淦門(アカト)区も、門前(トマエ)と同じ商業地域と呼べるが、規模、価格ともにわずかに小さい。  同じものを安く売っていれば淦門(アカト)区が有利となるが、残念ながら質も下がる。  ただ、門前(トマエ)区の賑やかさとはまた違う、雑多さや荒っぽさには独特の雰囲気があって、根強い客も多い。  それに、と。  露店でタコの唐揚げとビールを買い、今いる淦門(アカト)区のさらに先を見上げた。  川から離れて次第に斜面をきつくしていく山に、張り付いて這い上がっていく灰色のモザイクのような家々。  家、と呼べるものがどのくらいあるのか分からないが。  山の向こうになって見えない陸の端、断崖を背にして堅牢な城が築かれていたのは、もう千年以上も昔だ。  小さな島国とはいえ、今はひとつの国である波照(ナズレ)がまだ五つの小国だった頃、その内の一国の主が居を構えていたのだという。  断崖を背にして山腹の勾配を自然の防壁とした、臥竜城(がりゅうじょう)は今はなく、“臥竜城区”と地名にその名だけをとどめている。  そして、その名に相反して、現在の臥竜城(がりゅうじょう)区は、一言で言うなら、掃き溜めだ。  歴史に揉まれる波照(ナズレ)の中で、臥竜城もまた、波乱に富んだ栄華と衰退を繰り返した。  繰り返す(いくさ)の果てに国は境を変え、城は主を失った。  住む者が去り、別の者が訪れ、国に接収(せっしゅう)された後も、戦争で勢力図が変わり、支配者が変わるたびに少しずつその形を変え、かつての姿を失っていった。  近代では高級別荘地になったこともあるが、大戦の後はそれも(すた)れて、難民と貧困と民族対立の逃げつく先になったと聞いている。  そして今は、かつての城砦跡、その後にあった、山の下からは見えない別荘地はもぬけの殻となり、違法建築が膨れ上がっていた。  夏山の青さを押し返す勢いで雪崩(なだ)れ広がるゆがんだ建物たちは、皮肉なことに、ねぐらにとぐろを巻いて()せる龍のように見えた。  かつて存在したという城のように。  そこが今、どんな様子になっているかなどと、考えたこともない。  歴史の複雑さの分、描けば深みのある絵になるのかもしれないが、若い女性が近づくようなところとは思えない。  見上げて描くのならここだろうかと、八百石(ヤオイシ)よりは十分に治安の低そうな淦門(アカト)区の露店街に目を戻した。 「ごちそうさま」  掛けた声に、はいよと応じる主人が、一瞬チラと視線を寄越す。  尋ねてみようと目を向けていなければ、見逃しただろう速さだった。 「八百石(ヤオイシ)から来たのか?」  目が合った弁明のように掛けられた声に、うなずく。 「そう。人を探しにね。女の子が川を渡ってこなかった?」  閉扇(トセン)市でもなく、川縁の門前(トマエ)区でもなく、八百石と言い当てられた。  身に着けているものか、雰囲気か、もしかしたら間抜けそうにでも見えたのか、ともかく自分は“よそ者”だと判るらしい。  それなら、ミハルがここを通っていれば、同じように目についたのではないだろうか。  そうして向けた問いに、主人は軽く鼻で笑った。 「冗談だろ、そんなもん毎日何人も来るよ。川の向こうからこっちに来る用なんか、あるわけねえと思ってんのか?」  とっさには反論が出なかった。 「……そんなことはないけど」  ウソだ。 「学生なんだ。僕は学校の教師」  思わず口をついたウソを塗り替えるように、本当の事情を打ち明ける。  が、なるほどねえ、と頷く主人の反応は良いとはいえない。  鼻から息を抜くようにしながら、通りを見回す。  想像していた以上に人通りがあるのは確かだ。老若男女の偏りも目につかなかった。  そう考えたちょうどその瞬間、ドキリと跳ねた鼓動が神経に刺さる。 「なあ」  掛ける声に、アン? と、荒っぽい発音で答えた主人の声は、まだいたのかと言わんばかりだ。
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