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1、気に掛かる言葉、奇妙な出来事
波照の国には龍がいるという話を、知っている者は少ない。
「……そうして、龍使いたちが去ったあと、困った波照の人たちは、龍の力を借りず、機械で炎や風の力を作ることにしました」
羽根枕に乗せていた小さな頭をあげ、少年はキュッと唇を結んだ。
「おばあちゃま、龍使いはどこへ行ったの。もうどこにもいないの」
「あらあら。これはお話だからねえ。龍使いは、いたのかもしれないし、いないのかもしれないねえ」
「……そっか」
落胆する黒い髪を、老いた手が優しく撫でる。
「でもね、人間は龍がいなくても、龍使いと同じようにみんなのためになる力を自分たちで作ったし、今も頑張ってるんだよ」
「……でも」
なあに、と、問う優しい声に、少年は枕に顔を半分埋めて笑う。
「龍使いの方がかっこいいよ」
子供らしい率直な感想に、祖母は声を立てて笑った。
「先生、わたし、死ぬのが怖くないんです」
夏至を過ぎて日に日に高くなっていく保健室の気温を、カーテンを躍らせ窓から入る風が、爽やかにしている。
一秒未満、頭を整理し。傷つきやすい心と向き合う覚悟を固めてから、デスクに向かっていた椅子を回して、身体ごと振り返った。
白と濃紺の制服に身を包んだ生徒は、ベッドに腰掛け足をぶらぶらさせて、所在なさと何気なさを装って。けれど全身から、あのなんともいえない切実さをみなぎらせてこちらを見ている。
視線はこちらの顔に真っ直ぐ触れず、ほんの少し逸れて、掲示されたポスターか何かを読んでいた。
たしか、その位置なら食の安全月間のポスターだ。
「そうなんだ。怖いより怖くない方がよさそうに聞こえるけど」
僕ならね、と、価値観を押しつけないという約束を遠回しに示して、うなずいた。
「気持ち悪くないですか?」
「……気持ち悪いとは思わないけど」
腕組みして思案する。
小さな棘がどこかに刺さるような感覚が宿っていた。
それは、彼女の苦しみのせいではない。そんなものは想像すらも難しい。
きっとこれは、彼女が、そして同じ年頃の彼らが毎日のように発している、あの、爆発的な切実さのせいだ。
「そうだな……」
また少し間を置いてから、宙に浮いていた視線を彼女に戻した。
向き合う両目は、今度はまっすぐに、行儀良くこちらを見ている。
「それはまだ、君に守るものがないからかもしれない。家族とか、友達とか、置いてはいけないもの、自分がいなくなると辛い思いをするだろうと、考えてしまうようなもの」
はい、と、相槌の色で答えて、切実な目はその苦しみとともに、こちらへと向けられなくなる。
解放の安堵と、核心をつけなかったという、曖昧なもどかしさ。それに、見えそうだったものがスルリと姿を消した瞬間の、物足りなさが胸の辺りに居座って。
ほんの数秒で、諦めと開き直りがそれを掃き清めていった。
本人の切実さはともかく、死ぬのが怖くないのだという、緊急性のない問題は後回しになっていく。
前にいた学校よりは穏やかに感じるが、比較的行儀の良いこの学校でも、十代前半の生徒たちの危なっかしさに違いはない。
職場である保健室には、やれすりむいたの、吐き気がする腹が痛いのとしょっちゅう子供たちが訪れ、発熱や骨折などになれば迅速に病院へと繋がなければならない。
身体の不調なら目に見えるだけ多少マシなくらいで、人間関係について、学校生活について、自分自身のことや、もっと漠然としたなにか。そんな心の苦しさも時に持ち込まれる。
幸い、養護教諭である自分とは別に、スクールカウンセラーもいる。重大な、もしくは早急な対応が必要だと思えばそちらへと促すこともある。
だが、子供たちだって賢いもので、まだカウンセリングを受けるほどではない、という判断として“保健室の先生”を選ぶことも少なくない。
そして、そんな風にやってくる者がいなければ暇だろうと、思われがちであるのも、なかなか辛いところだ。
生徒たちの健康記録や保健だよりをまとめ、地域で流行する感染症や安全情報に気を配って、保健室自体も不備なく管理する必要がある。
保健室を閉める時間は決まっていても、部活中の怪我や体調不良で飛び込む生徒もゼロではない。
白墨が目に入ったと、開けない目から涙をあふれさせながら連れてこられた生徒を慌てて病院に連れて行き、後から追いかけてやってきた顧問の先生と交代して、ようやくその日の業務を終えた。
長くなった日もようやく暮れ、億劫そうにのろのろとやってくる夕闇が、歩き慣れた駅からの道に見慣れた影を落とす。
暑さで詰まるような息を緩めようと、シャツの襟元に指を引っ掛け、強い違和感に思わず足を止めた。
考えるより早く、思わず背後を振り返る。
鈍角の屈折を繰り返すブロック塀の高さに、光とかげろうの揺らめきが消えていく。
それを見てようやく、違和感の記憶と認識がつながり、背を向けていても感じるほどの強い光を見たのだと理解した。
「おっ」
角から飛び出した、影の塊が視界の端をよぎる。
今度はそちらを追い、さきほどとは逆に振り返って目を瞠った。
最初は、獣かと思ったのだ。だがそれを、動きからして多分人間だ、と思う、馴染みのない感覚。
頭から足の爪先まで真っ黒な、たぶん黒い服を着て、そのフードを目深に被った異様な姿。
突然の出現にぶつかると思った身体が、触れもしなかっただけでなく、駆けて現れ、走り去ったというのに、足音を聞いた気がしない。
何よりも、まだ盛りではないとはいえ、今は夏だ。
少なくとも正面近くから現れたのに、肌の一部も目に残ってはいなかった。
すでに後ろ姿もない、無人の路地を呆然と眺めるだけだ。
見たことすら記憶違いなのではないかと、書き換えられそうになる意識を、押し止める。いや見た、見たと言い聞かせるよう、その姿を脳裏に追いながら、踵を返した。
なんだろうと思っただけだった、光の発生源へ。
好奇心未満の確認だったはずなのに、今は、縋るような思いすらある。
奇妙な人間はそこにいたのだと、いや、全然関係なくても構わない。自分の知っている現実感を裏付ける、目に見える何かを見て安心したいとでもいうような。
だが。
角を三つ曲がって、この辺りじゃなかったかと見回して、見つけたものが、余計に混乱を残すばかりだ。
「……煤?」
そう広くはない路地の、真ん中の地面にいびつに丸く広がる黒い跡。
身を屈めて黒い跡を指でこすれば、指先にはサラサラとした細かい粒子が残る。
わずかに熱が残っているようにも思えたが、以前からここにあったのなら、黒い跡が太陽光で熱くなっていてもおかしくはない。
いや、と、そこからもう一度、辺りに目を配る。
細かなゴミや埃が転がる路地で、黒い跡の上だけ何も乗っていない。新しいもののような気がした。
大きく息をついて、屈んでいた腰を上げる。
考えたところで判りそうもない。
黒い人影、黒い跡。
ほんのわずかな奇妙な体験と、辿り方など想像もつかない奇妙な符丁。
今日はおかしなものを見た。
残ったのは、それだけだった。
誰かが何かを燃やしたのだろうか。
道の真ん中で?
二日後になってもまだ、黒い影と黒い跡が時折、頭にチラついた。
定期の職員会議で様々な伝達と報告を耳に入れながら、そんな風に緩みかけた集中力を、ひとつの連絡事項が一気に呼び戻した。
「――…の……ミハルが家に戻っていないとご家族から連絡がありました」
痛痒感に似るほどの鋭い引っかかり。
顔を上げて、連絡を続けるクラス担任の顔をじっと見てしまう。
「ミハルのお母さんが言うには、放浪癖というか、時々出掛けて帰ってこないことがあるから、と……」
音がしたかと思うほど、はっきりと目が合った。逸らす理由はない。
「シメイ先生、なにかご存知ですか」
名指されてうなずきかけ、思い直して少し顎をひねった。
「はい、ああ……いいえ。ただ、先日保健室に来ていたなと思いまして」
「何か話してましたか」
荘野美蓁、という名前と、続いて顔。それからその眼差しが思い出される。
『死ぬのが怖くないんです』
職員会議で打ち明けるにはインパクトが強すぎ、それにしては意味が曖昧すぎた。
「なにか悩んでるのかなと少し感じたんですが、具体的には何も」
死ぬのが怖くない、というのは、悩みといえるだろうか。
放置してしまった問題に急に襲いかかられ、それなのに、答えはまだ分からない。
「……ミハルはいつもそんな感じではありますね」
クラス担任のコウ先生は頭を掻いた。
了解と、それ以上は何もないと示してうなずいて見せ、次の伝達に目を伏せて耳を傾けた。
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