僕のために死んでください

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八月だけど、夜の海は肌寒い。 東京湾の沖合、遠くにレインボーブリッジの明かりが逆さまに見える。   モーターボートの上、金属同士がぶつかり合い擦れたような大きな音がなり響く。 波の揺れに任せて、クレーンゲームをでっかくしたようなやつに、紐でぐるぐる巻きにされた男が逆さ釣りで揺れている。 それを見ている黒いスーツ姿のおっさん二人組。 グラサンをして薄毛で背の低いほうの、兄貴って呼ばれているやつが、ボートを運転している。 もう一人のオールバックのロン毛で薄い顔の男は、どうやら三郎という名前らしい。 チビの兄貴が三郎に指示を出した。 「沈めろー」 金属の擦れた音がさらに大きな音に変わり、モーターの周るような音と同時に、クレーンゲームのアーム部分みたいなのが回転して、海のほうに突き出た。 そしてもう一度、激しいモーターのような音がウィーンとなると、逆さ釣りの男はだんだん降下した。 男の顔面が海面に近づく。 男は必死で抵抗した。 出来る限り腹筋を使い、釣り上げられた活気のいい魚のように、上半身を海面から離そうとした。 男は大声で助けてーと叫んだ。  でも、ここは東京湾の沖合、魚はいても人はいない。 髪が濡れた瞬間あぁもうこれかなりやばいんじゃね……と男は感じていた。 男は残った力で、必死で首を曲げ、何とか息だけはしようと必死だったが、抵抗も虚しくあっけなく、海の底へ落ちていった。 男は必死で息を止めた、肺に水が入ったら終わりだと。 でもそんなことしてももう終わるだろう。 手足が縛られているから、上に上がることができない。 記憶と気力がだんだん薄れていき、体の力が抜けてきた。 息苦しさも、もうなくなった。 俺、山内航也22歳、今海に沈んでいった男。 俺は大学四年生最後の夏休み、就職も決まっていたから、千葉の実家に帰る予定だった。 大学のすぐ近くのアパートで帰る準備をしていた時、友人の青田大将から連絡があった。 大将は、学校から少し離れたワンルームマンションで一人暮らししている。 夏休みの間旅行に行くので、部屋を勝手に使っていいから、蛇を預かって欲しいと言う。 地元で就職が決まっていたから、一度くらい夏を横浜で過ごすのも悪くないと思った。 俺は三人兄妹。 実家に帰るとすぐ近くに嫁に行った、二つ年上の姉の真希が毎日のようにやってくる。 彼女はできたのかとか、自分の部屋の掃除ぐらいしろとか、口うるさくて鬱陶しい。 今年小六になる妹の由貴は、風呂掃除の当番と犬のポン助の散歩の当番を、サボって俺に押し付ける。 俺が文句を言うとすぐ、親父やお袋に、お兄ちゃん怖いとか告げ口する。 そんな時だけ猫撫で声だ。 大学を卒業して地元に帰れば、またこの地獄が続く。 俺はこの夏しかのんびりすることはできないと思い、大将の頼みを引き受けた。 一週間に一度餌をやるだけでいいと言う。 餌は冷凍室に入っているからとの事だった。 大将のマンションは、みなとみらい線の新高島の駅を降りてすぐのところにあり、俺の大学と寮がある横浜駅とは電車で一駅だ。 クーラーと冷蔵庫の中のものを好きに使って良いということだった。 俺の大学の寮のクーラーは気温が35度を超えた頃、サボり出す。 期末テストが終わり次第、俺は荷物をまとめ大将のマンション、へ向かった。 四階建てのワンルームマンションで、外階段と外廊下を通って、三階の一番奥に大将の部屋がある。 古く変色し、何色とも言えない金属性のドアを開けると中はワンルームになっている。 何度かゲームしに来たことがあるから、中の勝手はわかっている。 入ってすぐ左が小さなキッチン、その奥にトイレと風呂がある。 正面の奥の右側に小さいテレビが置いてあって、その右横のカラーボックスの上に蛇の入った水槽が置いてある。 名前と種類は忘れたけど、今大事なことを思い出した。 確か以前に毒蛇だって言ってた。 まじか………どうやって餌をやる? 噛まれちまったら、割に合わねぇ、てか終わりだ。 水槽の横にちっちゃめのさす股みたいなもんが置いてあった。 これで首根っこを抑えてやれってことか。 えーっと、台所の流しの横にあるちっこい冷蔵庫だな。 その中に蛇の餌が入ってるから週に一回食わしてほしいってことだから……夏休みが約六週間だから…… 六回やればいいだけだ。 俺はクーラーを一番低い温度まで押し続け、大の字に寝転がった。 狭い部屋だから、クーラーはすぐに、俺を天国へと誘なう。 ちょっとお昼寝でもと思いかけた時、忘れてた!水は絶対に切らさないでやってほしいってことだった。 えっーと、水くむもんは……茶碗を入れてあるザルからコップを見つけた 俺は水道水をコップに7分目ぐらい入れて、水槽の上の網から一気にぶちまけた。 その下に水を入れる皿があったから、そこに半分ぐらい水が収まった。 今日の作業終了。 大将からの電話があったのが三日前で、餌をやってから行くってことだったから、しばらくは水をぶっかけるだけで大丈夫だ。 「ヤッホー。俺の学生生活最後の夏休みいらっしゃーい」 なんて叫んでみた。 冷蔵庫の中に何かうまそうなもんねぇかな……。 おお!あいつ以外に気前がいいじゃん。 キンキンに冷えた500 CCの缶ビールが三本。 とりあえず一本給油給油〜。 俺お疲れさん。 冷凍室にアイスクリームなんか入ってないかな? 俺はソーダのアイスキャンディーが大好きだ。 見てみたけど、アイスキャンディーはなかった。 『蛇の餌』と書かれたビニール袋に包まれた塊が入っていただけ。 牛肉だったら少し味見さしてもらおうかな。 大将のアパートに移ってから、四日目の夜。 俺は居酒屋のバイトの帰り、コンビニで夜食べる焼きそばとソーダのアイスキャンディーを二本買って大将のマンションへ戻った。 食後の楽しみにとアイスキャンディーを狭い冷凍室に突っ込んだ時に思い出した。 そうだ今日蛇に餌をやる日だった。 冷凍庫から〈蛇の餌〉と書かれた袋を取り出し開けてみた。 何か肉の塊らしきものを、ビニール袋から引っ張り出した。 勢いついて、破れていたビニールの穴から塊が一つ足元に落ちた。 それを見た俺は手の中にあったものを全部床の上に落とした。 小ネズミだった。 「嘘だろ……こんなもん食うのかよ」 確か皿にのしてチンしてから食わせてくれって言ってた気がする。 まじ無理! 22年間生きてきて、こんな怖い思いしたのは初めてだ。 今んとこ。 ……どうしよう。 待てよ、自然解凍しても食えるよな。 きっと、だって、蛇は調理なんかしないじゃん。 溶けるのを待ってから食うだろう。 足元に落ちているものを拾うのも怖かった。 害虫を殺したりとかもできない俺がこんなことをする羽目になるとは……。 触るのは無理だから、そうだ、コンビニでもらった割箸、それだと感触が伝わらないから、まだマシだろう。 でも見るのは怖い。 そうだ!グラサン。 部屋の中を見渡したけど、見つからなかった。 俺もサングラスは普段持ち歩くこともない、てかもともと持ってない。 黒目を真ん中に寄せ、視点をぼかした。 ぼんやり見えるシルエットにさえ恐怖を感じながら、震える手と箸でそれを掴もうとするが、カチカチに凍っていてうまくいかない。 三度目の正直でやっと掴めたと思ったが、それと視点があってしまった瞬間、力が抜け、俺の足のめがけて、落っこちて来た。 パニックになった俺は、避けようと足を後ろに蹴り上げた。不幸が起こった。 俺は前のめりに倒れ、ねずみちゃんが俺の唇に触れた。 冷たくて臭い。 もう無理だ、そう思った時、部屋の隅っこ目の前にちりとりが転がっているのが見えた。 神が現れた!俺は、ちりとりと箸を使い、そいつを乗せ、蛇の網の上に転がした。 水滴が蛇の上に落ちた。 奴が網に向かって食いついてきた。 「ウォーッ」 さす股を左手に持ち、深呼吸してから、右手でちっこいスライドドアを開け、ネズミをさす股で滑らして放り込んだ。 奴が出てこないように、噛まれないように、ネズミは黙視しないように。 すぐにスライドドアを閉め、ちょっと離れてから恐る恐る中を見てみた。 どこを見ても、もうネズミの姿はなかった。 まだ凍ってるはずなんですけど。 喉詰まらせて死んでないよな? なんだか変な動きして苦しそうだけど、喉のあたりが膨らんで、だんだん腹の方へ移動していくのがわかる。 酔いが覚めるほどゲンナリする光景だ。 餌やりが終わり、焼きそばを食べようかと思ったけど、完全に食欲が失せていた。 アイスキャンディーに至っては冷凍室に突っ込んだことを後悔した。 もうアイスキャンディーは食えねぇ。 冷蔵庫にビール二缶残ってたはずだ。 とりあえず空腹を紛らわすため、一気に流し込んだ。 急に眠気が襲ってきた。 明日はバイトもないから自由だ!このまま寝れるだけ寝てやるぞ。   激しい音で目が覚めた。 ドアをノックするとか言うんじゃなく、ぶっ壊しにかかっているような。 酒が回った頭の中を、余計になり響く。 時計を見ると夜中の三時だった。 誰?大将? ふらつく頭と足を起こして何とか玄関までたどり着いた。 ドアについているスコープから覗いたけど、汚れていてよく見えない。 とりあえず鍵を回しちょっとだけドアを開けて外の様子を伺おうとした時、目一杯の力でドアが外に開けられた。 ちっちゃい男と大きな男の二人組が侵入してきて、いきなり手足を縛られ、口にガムテープを貼られた。 そして、でかい方の男に、荷物のように持ち上げられ、部屋から運び出され、黒いライトバンの中に放り込まれて、そして今こうなってる。 口の中、鼻の中、目の中、穴って穴から塩っぱい水が流れ込む。 そのうち苦しさを通り越して穏やかな気分になってきた。そろそろ三途の川を渡る頃か……。 このまま天国って言うとこに行くのか……。 俺が死のうが生きようが世の中は、何も変わらない。世の中は回ってる。 さらば。 ザBOON! バシッ。 バシッ。 いてっ! もしかして俺地獄に落ちた? 「目覚ませこの馬鹿野郎」 閻魔様の声が聞こえる……と思ったら、チビの兄貴の顔が見えた、逆さまに。 ズドン。 激痛が首筋に走った。 俺生きてたんだ、まだ。 俺の目は慌てで周りを観察した。 どうやら船の上に戻されたみたいだ。 塩水が目に染みて痛い。 三郎が機械を操作して、俺は変な首の角度のまま、船の甲板に叩きつけられた後、滑るように横たわった。 両手足は後ろに縛られたままだけど、腰にぐるぐる巻きにされていたロープは外された。 船が方向を変え、猛スピードで走り出した。 遠くにチラチラと見えていた港町の明かりがはっきりとしてきた。 びしょびしょの体が風邪に当たって俺の体温を奪っていく。 上下の歯がガタガタと震えた。 だけど、生きてる。生きてる証拠だ。 ちび兄貴がでかい声で電話で喋っている。 「わかりやした。一週間以内に始末させます」 ちび兄貴が俺の髪を掴んで、頭を起こし顔を近づけて来た。 「お前命拾いしたぞ、ハハハハハハハハハ」 港に戻ると、さっき乗ってきた黒塗りのバンにびしょびしょのまま、カーペットみたいに、積み込まれた。 車の中でガムテープを口に貼られ、顔に袋をかぶされてどこかに走り出した。 2 、30分走っただろうか、急ブレーキがかけられ、俺の体は、ボーリングのピンみたいに転がった。 車のドアが開く音がして、とっとと降りろと三郎に言われた。 真っ暗な視界の中、先っぽしか自由にならない手と足を探りながら車から降りた。 三郎に手を引っ張られ、階段をつかみ上げられながら上り、軋んだドアが開く音がして、その中に放り込まれた。 顔の袋とガムテープを外されると大将の部屋だった。 顔に袋をかける意味って何だったんだろう? 部屋の中は暑かったけれど、俺はガタガタと震えていた。 俺を部屋の真ん中に座らせ、ちび兄貴が喋りだした。 「お前、死ななくてもいいかもしれないぞ、それはお前次第だ」 後ろにいた三郎が、変な笑いを浮かべた。 ちび兄貴が、持っていたえんじ色の悪趣味なセカンドバックから、メモとペンを出して、スマホを見ながら走り書きした。 「一週間以内にこいつを殺せ。そうしたらお前の命を救ってやる。 逃げたりしたら、もう一発でお陀仏だからな。 俺たちいつも見張ってるからいいな。一週間だぞ」 ちび兄貴の指示で、俺の足と手のロープが外された。 ちび兄貴はメモをちぎり、俺の足元に投げ捨て、三郎と出て行った。 ドアが閉まる音がし、二人の足音が完全に聞こえなくなった。 俺は濡れたTシャツとジーパンでできた床のシミをぼーっと眺めていた。 そして、大の字になって深呼吸した。 天井のシミを数えたりした。 助かった……と言う思いと、俺の足元に落ちているメモ用紙を見る恐怖感とが同時に襲ってきた。 今までおこったことが夢だったらどんなにいいだろう。 夢なんじゃないか?紙なんてないよきっと。 顔を天井に向けたまま、そっと右足を横に滑らす。 薄い何かが足にあたる。 ゴミが落ちているだけだ。 俺は目をつぶり、ゴミと思われるものに背を向け横になった。 全部夢だ、そう悪夢ってやつだ。 今までにもこんな悪夢見たことある。 だけど、体はびしょびしょに濡れてる。 真水の匂いじゃない。 磯釣りに行った時のあの匂いだ。 俺は寝転んだまま体に張り付く服を全部脱ぎ、足元に蹴飛ばした。 体が冷たくなっていることに気づく。 脱ぎ捨てた靴下とシャツの間に落ちている白いもの。 体を起こしそれを拾った。 住所と誰か知らない男の名前。 その時俺は思った。 ここは地獄の入り口だ。 蚊くらいしか殺したことないし、人間なんか殺せる気もしない。 でもそうしないと俺は消される。 なんで急に俺は命を狙われることになった? 待てよ、もしかして大将と間違われてる? ちゃんと説明すればわかってもらえるかもしれない。 俺は大将にはめられたのか? だとしたら、今しかチャンスは無い。 大将には悪いが、どう考えても裏切ったのはあいつの方だ。 俺は、ちび兄貴たちの跡を追いかけた。 アパートを出たところに停まっている黒塗りのバン、発進しようとする寸前に、俺は前に立ち塞がった。 俺の事が見えていないように車は進み出した。 慌てて運転席のドアの方へ回りこんで、窓ガラスを叩いた。 車はゆっくりとスピードを上げながら俺と一緒に並走している。 窓が開き、助手席のちび兄貴が顔を覗かせた。 「聞いてください。俺、山内航也っています。あそこに住んでいるのは、青田大将、俺は留守番を頼まれただけなんです。 勘違いなんです」 チビ兄貴は、2 、3秒考えているような顔をした後、嫌な笑いを浮かべた。 「山内航也?なら何の問題もない。ほら見ろ」 カバンの中から紙切れを出して、俺の顔に突き刺すように親指と人差し指でつまみ上げて揺らした。 青田大将の名前が書かれた借用書。 保証人山内航也。 「ちゃんと印鑑も押してあるわな……じゃあな、逃げれると思うなよ」 俺は頭の中がぐじゃぐじゃになって、真っ白になって目の前が真っ暗になった。 車は窓が閉まる同時に夜の闇えと消え去っていった。 俺が?青田大将の保証人?いつの間に? 俺は膝から崩れ落ちて座り込んだ。 そして小学生が泣く時みたいな恥ずかしい泣き方をした。 地団駄を踏みながら、右腕で涙を拭い、大声で泣き叫んだ。 「俺ははめられたんだ、クソ野郎!もう友達なんかやめてやる」 いつの間にこんなことになったんだ。 俺がバイトしてるコンビニで二ヶ月前まであいつも働いてた。 店長と折が悪くなって来なくなった。 コンビニのトイレ掃除が終わった後は印鑑を押すことになってる。 いつの間にか俺がいつも制服のポケットに入れてた印鑑がなくなってた。 あの時なのか? あいつが、バイトをやめたのはそれが理由か? 大将のやつ計画してたのか? くそっ、蛇の世話なんかもうごめんだ。 俺は部屋に戻り、大の字に寝転がった。 俺はまだ22歳だ。 女の子と付き合った事はあるけど、キスまでだった……。 まだまだやりたいことがいっぱいある。 てか、あいつの身代わりになって、死にたくなんかない。 さっき、ちび兄貴が残していた手紙が目に入った。 東京都白金台×丁目× ×番地。 七海智史。 俺はその手紙をじっと見つめた。 二人の俺がいた。 一人はさっきの続きで海に放り込まれる俺。 もう一人は……取り返しのつかないことをやって血まみれになって、それでも生きてる俺。 どっちも考えたくなかった。 一週間か……部屋の時計の秒針の音だけがやたら大きく聞こえる。 人としてどうしてもやっちゃいけないことがある。 だからこの手紙を破り捨てなくちゃいけないんだ。 俺は手紙を両手でつかんで破ろうとした。 でも体が動かなかった。 これをなくしたとき、俺の命が終わるっていうのがわかってたから。 俺はずっと動かず、何もせず、ただ太陽が昇り沈んだ。 不思議と腹も減らず、また太陽が昇り沈んだ。 心のどっかで「あと五日」と誰かが叫んだ気がした。 喉がカラカラで目が覚めた。 うっすらと考え事をしていたら、またうとうとしてしまった。 夢を見た。 三年前に死んだばあちゃんの夢。 「悪い事したら、閻魔様が地獄で舌を引っこ抜くんやで」 ばあちゃんは俺にそう言っていた。 俺の心がわかったのか……。 俺は、かぶりを振り、慌てて起き上がった。 台所の水で頭と顔を洗い、紙きれをジーパンのポケットにねじ込み部屋を出た。   ばあちゃんはこうも言っていた。 「一寸の虫にも五分の魂、どんな生き物でも命を大切にせなあかんよ」 ばあちゃんごめん、俺の命だって大切だろ。だから……。 新高島駅からみなとみらい線に乗り、日吉駅で乗り換えて白金台を目指した。 乗り換えの途中駅中のコンビニで、黒い帽子と果物ナイフを買った。 白金台の駅を出て書かれていた住所のとおり北西に進むと、閑静な住宅街が並んでいる。 その一角に飛び抜けて大きな洋館があった。 表札には七海とだけ書かれていた。 ここだ間違いない。 俺は暗くなるのを待った。 怖いぐらい冷静だった。 ドラマに出てくるような凶悪な、何度も罪を重ねてきたような男になりきろうとしていたのかもしれない。 メモ書きには二階の南側の部屋と書かれていた。 日が落ち、監視カメラがないのを確認し、煉瓦塀をよじ登り、敷地の中に侵入した。 人の気配がしない。 よく見ると、一階は真っ暗だったが、南側の角の部屋からうっすらと明かりが漏れていた。 あの部屋にいるのか?七海智史。 どうやって侵入する? 絶対に気づかれないように。 南側の裏庭に長い梯子が無造作に転がっていた。 不用心な家だな。 俺は音を立てないように気をつけながら、梯子をかけて、二階のベランダに侵入した。 明かりがついている部屋の一つ隣だ。 はしごから足を離す時、はしごがベランダにぶつかり、金属の擦れる音が少しなった。 「やばっ」 ベランダで身を屈めて、久しぶりの運動で荒くなった息を落着かせながら、気づかれていないか、暫く様子を伺った。 人の気配や変わった様子は伺えない。 ベランダに面した真っ暗な部屋のガラス戸に手をかけた。 このドアが開いてたらラッキーなんだけど、 ちょっと引いてみた、すーっとドアが開いた。 この家どうなってるんだ。 靴を脱いで入ろうとしたけど、よく考えたらすぐに逃げれない。 俺はもう一度靴を履いた。 靴のままで人の家に入るのは、なんだか違和感があった。 もう犯罪をしている気分。 いや既に不法侵入になっているし。 真っ暗な部屋から廊下に出た。 南側の部屋のドアを見つけた。その小さなガラスの小窓から明かりが漏れていた。 ここにいるのか? 俺は、すり足で南側の部屋のドアの前に、体を屈めながら近づいた。 息を整えて、ドアノブに手をかけた。 逆にここまでが順調すぎて怖かった。 心のどっかで捕まってしまいたいと言う気持ちもあったのかもしれない。 震える手を抑えながら、そっとドアノブ回し中を覗くと、奥のほうに人の気配がした。 手前に本棚が見えた。 俺は引き戸のドアを更に開け、足跡を忍ばせて、そこに隠れた。 心臓が耳に届くくらいに音を立て始めた。 息が苦しいけど、声を出しちゃいけない。 部屋にいる人間が、七海智史なのか確かめなくちゃいけない。 死んで欲しいと思われる位だから、よっぽど悪い奴なんだろうし、関係ない人間を巻き込みたくない。 どうやって確かめる? 俺はしばらくそこで考えていた。 その時だった。 「殺しに来たんだろう?だったらさっさとやれよ」 子供の声? 驚いている隙もなかった。 次の瞬間、大きな男が俺のほうにすかさずかけよって、俺はたちまち首根っこをつかまれ羽交い締めにされた。 抵抗するにも男の力が圧倒的すぎて何もすることができない。 部屋の真ん中に連れて行かれた。 急に明るいところに出て目がまぶしかった。 最初はぼんやりしていたけれど、はっきり見えた。 どう見ても小学生らしい男の子が勉強机の方を向いて座っている。 背中しか見えない。 かけてあるランドセルからぶら下がっている笛の袋に、5年2組七海智史と書かれていた。 まさか……。 今の声はこの子? 「アジ、いいから放しておやり」 やっぱり声はこの子から聞こえている。 小学校5年生! 「ジュニア、キケンデス」 浅黒い肌に整った目鼻立ちをした、アジと呼ばれているその男が心配そうな顔をし、片言の日本語でそう言った。 「大丈夫、何かあったらすぐに呼ぶから、廊下で待ってて」 アジと呼ばれている大男は不安そうな顔で男の子の方を向いた。 「こんな奴にやられるほど、僕は子供じゃないよ」 アジは、俺の体から力を抜き、俺の目を穴が開くほど睨みつけた後、部屋の外へ出て行った。 俺は思った、この小学生をやったとしても、こいつに殺される。 部屋のドアが閉まると、同時に少年が言った。 「僕の命が欲しいんだろう。じゃぁ早く終わらせなよ」 俺は動けずにいた。 命を狙われている相手が俺の妹、由貴よりも年下の小学生だと言うことに驚いた。 何よりもその子供に早く殺せと言われていることも。 頭の中が混乱して、今何をするべきなのかわからなくなった。 しばらく沈黙が続いた。 口を開いたのは俺だった。 「どうして?死にたくなんかないだろう」 「もうあんたで4人目だよ。みんなアジが捕まえて、その後警察に突き出したけど、その一週間後ぐらいにね、みんな死体で見つかってるんだ」 俺は凍りついた。 この子を殺さなければ俺もそうなる。 「誰に命を狙われているのかわからないけど、僕のせいで何人も犠牲になるのは辛いよ。 もう終わらせたいんだ。だから、もう抵抗しないよ。 そのあんたのポケットに入ってるナイフで終わらせてよ」 何でわかったんだろう?ここにナイフが入ってるって。 俺は震える手をポケットに入れたナイフを確認し、左手でナイフを抜き取り右手で構えた。 男の子が振り返った。 俺はその子の目を見てぞっとした。 幼い顔立ち、透き通った瞳、なのに、こんなに体温の感じない表情をした小学生を初めて見た。 俺は手に持っていたナイフ落とした。 もしかして、ただのいかついおっさんだったら、やってたかもしれない。 いやだけど、この子を殺さなきゃ俺が殺される。 俺は、ナイフを拾い上げた。 じいちゃんばあちゃん、親父お袋、許してくれ。 生意気だけど、まだ子供だ。だけど、俺が生きるためなんだ。 俺は目をつぶり、その男の子のほうに近づいた。 ナイフを持った右手を大きく上げた。 そして大声で叫んだ。 「俺は俺であり続ける。そのためにはこれしかない」 その右手を目一杯の力で、振り下ろした。 自分の腹をめがけて。 思いっきり二倍以上の力で止められた。 後ろからアジに右腕を掴まれてた。 俺はその体制のまま動けずにいた。 腹の方をめがけて力を入れるけど、力は入らない。 俺の五本の指の上に、アジの指が重なり、俺の指五本を全部を逆方向にそらした。 ナイフは床に突き刺さった。 とっさにアジはナイフをつかみ、遠くに投げた後、また俺を羽交い締めにした。 「アジ、よく助けてやったな」 アジは、無表情のまま二度うなずいた。 アジの力の強さで1ミリも動けない俺は、何とか声を絞り出した。 「もう何もしないからどうか放してくれ、悪かった、俺は家に帰る」 男の子が、首を縦に振った。 それを見たアジが俺を解放した。 今、ジタバタしたところで、瞬時に子供みたいにねじ伏せられるのわかっていた。 「あんた、今僕をやらなきゃ、家に帰る前に殺されるよ」と男の子が言った。 「あと5日間猶予がある、だから、五日間は生きられる」 「その後は?どうするんだよ」 「君に関係ないだろ、子供のくせに死にたいなんて思うなバカ」 俺はそう言い放って部屋を飛び出し、北側の部屋のベランダのドアから飛び降りた。 右足の足首を捻挫したようで、ものすごく痛かった。 足を引きずりながら、街をうろついた。 どこの公園かもわからない、ブランコに座ってどれぐらい漕ぎ続けただろう。 涙が出た。 自分でなんであんなことしたのかわからない。あのままあの子を殺していたら、俺は助かるはず。 だけど、どっかでわかってた、俺はそんなことできない。 なら死んだほうがマシ……でも、死にたくはない……あてもなく、ぶらぶら歩き続けて、気がつけば、自分のアパートの前だった。 待ってよ自分の部屋だったら、奴らは知らないかもしれない。 なんで気づかなかったんだろう。 真っ暗な空に、ほんの少し星が見えた気がした。 痛めた足を引きずりながら、アパートの外階段を登り、三階にある自分の部屋へ向かった。 自分の部屋のドアが見えた瞬間、なぜか目頭が熱くなった。 だけどあることを思い出した、部屋の鍵は大将のマンションの中だった。 絶望と言うのはこういうことだ。 「くそー」 俺はむかついて、自分の部屋のドアをおもいっきり蹴った。 ドアが少し開いた。 「えっ」 部屋の中からあごひげに、角刈り頭の知らないおっさんが現れた。 歳は40前後と言うところか。 鼻の下と顎の下、米粒みたいな真珠が埋まっている。 おっさんはドアの隙間から俺の全身を舐めるように見て聞いて来た。 「どなたさんですか」 「いや、それは俺のセリフ……ここは俺の部屋ですけど」 「他の部屋と間違ってるんじゃないですか?」 男はこもった声で、そういった後、外の表札をゆっくりと指差した。 もちろん、『山内』と書かれているはずが、『磯村』と書かれていた。 どういうことだ? もしかしてまさか? 男がスマホを出し、どこかに電話しようとした。 一瞬部屋の中が見えたとき、俺の荷物は何もなくなっていた。 何かやばいと思い、俺は廊下を足を引きずりながら走り、階段を駆け降りた。 奴ら、ここにまで手を伸ばしていたのか? 俺はあてもなく走り続けた。 足の負担が腰に来て、腰も辛くなってきた。 喉は渇くし暑い。 ポケットの中には100円玉が2枚入っているだけ。 夕方コンビニでナイフと帽子を買った時、1800円も使っちまったからなぁ。 自販機で160円のアイスティーを買い喉に流し込んだ。 もう走る気力はなかった。 あてもなく、夜道を一人で歩き続けた。 もう一つ足音が聞こえる。 試しに早足で歩いてみた。 もう一つの足音も早足になった。 ゆっくり歩いてみた。 もう一つの足音もゆっくりになった。 立ち止まって、振り返ってみたが、誰もいない。 気のせいだと、自分に言い聞かせ、再び歩き出した。 今度は歩きながら降り帰った。 黒い影が電柱の後ろで動くのが見えた。 もうどうにもならない。 俺は観念した。 それならいっそ快適なクーラーの中で最後の数日を過ごそう。 俺は再び大将の部屋へ戻っていった。 朝がやって来やがった。 なんで勝手に時間なんか流れるんだ、くそ。 俺は大将の部屋の壁に飾ってある、1時間ごとに音楽が鳴る掛け時計を外し、玄関のドアめがけてぶち当てた。 時計はバラバラに壊れた。 俺の命残り四日。 昨日あそこであの子を殺していたら俺の命は… .。 俺ってなんで馬鹿なんだろう。 自分の命より大事なものなんかないじゃないか。 しかも友達のいや、友達だったやつの代わりに殺されそうになって。 それでまた見ず知らずの子供の代わりに俺は命を狙われている。 俺ってほんとバカだな。 でもあの子なんで子供なのに命を狙われなきゃならないんだ? まぁタメ口でちょっとむかつくけど、そんな悪い奴には思えない。 あの家にはアジ以外人がいなかったよな? 家族はどこにいるんだ? あんな豪邸に住んでて幸せじゃない奴もいるんだな。 喉が渇いてきた。 俺は水道水をコップに組んで喉に流し込んだ。 ふと蛇のほうに目をやるとカラカラに乾いているように見えた。 見てなかったことにしよう……と思ったけど。 「俺が死ぬとお前も死ぬんだぞ、最後の情けだぞ。 大将のためじゃねぇからな」 俺は一人で呟きながら、自分の飲んでいたコップの水を檻の上から少しずつかけてやった。 餌は四日目にありったけ置いとくから、後は何とか生き延びろ。 そうだ忘れてた、今日はバイトのシフトが入ってた。 いや働いたところでどうなる、金を残してどうなる?何の意味もないぜ。 俺はそう言いながら寝転がった。 だけど、一緒に入ってたはるかに悪いなぁ。 はるかは俺より一つ年下の専門学校生だ。 声はちょっとおばさんぽいけど、スタイルが良くて黙ってたら結構いい女だ。 今日だけ頑張っていくか。 俺が死んだらはるかちょっとぐらい泣いてくれるかな? なんつって。 三日間連チャンのコンビニのバイトの最終日。 今日ではるかを見るのも見納めだと、品出しをしているときの後ろ姿とか目に焼き付けておこう。 斜め後ろから見たときの、ボブヘアーって言うのか、そこから覗く整ってすーっとした鼻と、丸顔なのにとんがった顎のラインが大好きだ。 はるか!俺は、頭の中で抱きしめた。 気づかれた。 何ジロジロ見てんのきもいって言われた。 見てねーしっ、手伝ってやろうかと思っただけだ、バーカ。 本当ははるかに俺がもうすぐ殺されることとか話したかった。だけど、巻き込むわけにいかねぇ。 はるかの方が一時間早くバイトが上がって、じゃぁお疲れっていつも通りに声をかけた。 くそ、もう少し時間があればせめて、告っときゃよかった。 なんつって。 店の外、小さくなってくはるかの後ろ姿に、心ん中で、バイバイって言ったら涙が出た。 バイトが終わり大将の部屋に戻った。 明日で終わる。 明日の何時ごろ何があるんだろう? また海か……とにかく寝てしまおう、酒を飲んで。 俺は冷蔵庫に残っていたラス1の缶ビールを一気に流し込んだ。 なぜか全然酔いが回らない、部屋の明かりを消した。 30分ほど経っただろうか?真っ暗な中、やっとうとうととしかけた時、カサカサと言う物音で目が覚めた。 部屋の電気をつけたけど、俺以外誰も見当たらない。 ふと右のほうに目をやると、蛇が水槽の中で動いているのが見えた。 「お前か……俺がいなくなっても生き延びるんだぞ」 俺はそう言った後眠りについた。 朝が来た。 もう起き上がる気力もなかった。 だけど、やっとかなきゃ 今日は最後になるだろう。 ぶち込んでやるからな。 腹を壊さないようにちょっと解凍しといてやろう。 俺は起き上がり、冷蔵庫の上に新聞紙を広げた。 そして冷凍室に入っている凍りついたマウスを袋ごと取り出し、新聞紙の上に広げた。 広げたと言うより袋から落としたという感じ。 もちろん薄目を開けたまま視点をずらして。 切羽詰まった俺でも気持ち悪いものは気持ち悪いんだ。 多分十匹ぐらいは入ってる。 一時間ほど大の字になってぼーっとした。 15分ほど経っただろうか。 カーテンの隙間から漏れる太陽の光がちょうどマウスに当たって、下に敷いていた新聞紙を湿らし始めた。 「もう行けるかな?」  そのまま、檻の上に移そうと新聞紙を持ち上げた時、新聞紙が破けて全部床に転がり落ちた。 「うわーっ」 新聞紙をずらして全部ぶち込むはずだったのに。 何もかもがついてねえ。 ちりとりと箸ですくい上げ、さす股で気をつけながら、檻の蓋を開け掘り込む。 直視しないように目の焦点を動かしているから、うまく掴めない。 九匹目が終わり、やっと最後の一匹。 まだ凍っているのか、ちりとりにくっついて、なかなかつかめない。 そして、じっくりと見てしまった。 数時間後の俺の姿と重なった。 お前も生きていた時があったんだなぁ。 今度生まれてくる時はマウスじゃなく、蛇に生まれてこいよ。 世の中は弱肉強食だ。 なぜか涙が出てきやがる 俺はそいつを新聞紙 でつかみ、部屋を飛び出した。 俺は走った、俺を監視している影を背中に感じながら。 駅からここまでの間、小さな公園が近くにあったはず、俺はそこを目指した。 公園には古い小さなシーソーが一つだけあった。 真夏の昼前、そこに人の姿はなかった。 俺はそこら辺の尖った小石を拾って、穴を掘った。 汗が顔のいろんなところから滴り落ち、公園の土を黒く染める。 無我夢中で穴を掘った。 マウスの倍位の深さまで掘って埋めるつもりが、地面がめちゃんこ硬くて1センチ位しかほれねぇ。 盛り土方式に変更だ。 1センチ掘った穴にマウスを乗せ、その上に土で山を作った。 優しく優しく土をかけ、そこら辺に落ちていた一番綺麗な石を置いて手を合わせた。 遠くの方やつらが見ている視線を感じながら。 そして俺は再び大将の部屋に戻った。 冷房の効いた部屋に汗だくの体が急に冷えて、生きてることを実感した。 体の力が抜けたようになって、三角座りで、壁を見つめていた時、誰かがドアをノックした。 小さな音だったから、勘違いかと思ったけど、もう一度はっきりと大きな音で誰かがノックした。 もうきたのか?まだ夜まで10時間ぐらいあるはずだ。 チェーンをつけたままドア開けてみる。 俺の方が一段高いのに俺よりまだ視線が上にある大きな男。 アジって男が立っていた。 「なんでここが?」言いかけた時、その下から小さな少年が顔を出した。 俺が依頼され殺されたはずの少年。七海智史。 智史はドアを開けて「中に入れてよ」と言った。 訳がわからないまま、チェーンを外すと、アジを外に置いて 智史一人だけが周りを気にしながら中に入ってきた。 智史が呆れたような声で、俺に言った。 「何やってんの」 「えっ何って……」 「今日だろう!なんで逃げなかったんだよ」 「あぁ逃げたところで、もし万が一、俺の姉ちゃんたちや妹やおとんやおかんにまで、何かあったら……。 家族を巻き込みたくないんだ」 「家族か……怖くないの?」 「そりゃ、こわいよ」 「じゃあ、俺を殺せよ」 「君こそ、怖くないのかよ」 智史は、うつむいて、黙っていた。そして首を横に振った。 喋り方は生意気だけど、初めて子供らしい素顔を見た気がした。 智史が何か言おうとした時、アジが肩を抑えながら飛び込んできた。 アジの右肩は真っ赤な血に染まっていた。 「ジュニア、ワルイヤツ、キマシタ」 俺は急いで玄関の鍵をかけた。 玄関を叩く音が聞こえる。 音はどんどん激しくなる。 「開けろ!今更逃げれるわけねーんだよ」 ちび兄貴の声だ。 俺はとっさに目についた押し入れを開けて、二人ともそこに隠れるように言った。 智史は渋ったけれど、俺に考えがあるからと言うと、肩から血を流しているアジをかばうように押し入れの中へ入った。 押し入れのドアを閉め、俺は玄関のドアを開けた。 ちび兄貴と三郎が入ってきた。 三郎は手にナイフを持っている。 ナイフの先は血で汚れていた。 「どけさっきのでかいやつと、ガキはどこにいる」 ちび兄貴の質問に俺は首を振った。 「どうせ俺たちがやらなきゃいけないんだ。まぁまだ少し時間があるけど、三人まとめてやってやる。 早く出せ」 俺には思いついた秘策があった。 大将が言ってた言葉。 『こいつは毒蛇だ』 俺は蛇の檻に駆け寄り、蓋を開け蛇を放り出し、慌てて押し入れに隠れてドアを閉めた。 そして「毒蛇だ一」と叫んでやった。 押し入れの隙間から覗いてみると、ちチビ兄貴と三郎は蛇を見てびっくり仰天、腰を抜かしたようにひっくり返った。 足をばたつかせているが、起き上がれないし、全然進まない。 ちび兄貴が慌てて叫んだ。 「悪いが、お前噛まれてくれ、俺の代わりに」 ちび兄貴は、犬のように四つん這いになって、赤ちゃんのハイハイみたいな格好で、玄関のほうに逃げようとした。 三郎の足にヘビが巻きつき、三郎は白目をむきだした。 声にならない声で叫んでいる。 ちび兄貴がドアに手をかけたとき、ドアが開いた。 大将が立っていた。 大将は、ちび兄貴たちに驚いた。 その後「ラブちゃん、こんなとこに出て来ちゃだめじゃん」と言いながら毒蛇を捕まえて檻に戻した。 ラブちゃんて名前なんだ。 いや、毒蛇を檻に入れるなんて馬鹿じゃねーか。 奴らの思うツボじゃん。 「お前どこに隠れてやがった!」 俺の言いたいセリフをちび兄貴が取りやがった。 蛇が檻に入ったのを確認して、急に態度がでかくなったちび兄貴が三郎に支持した。 三郎は大将の首根っこを捕まえ床に押さえつけた。 「イテテテテ、やめてくれ。金ならちゃんと用意したから」 床に押さえつけられたまま、背中の黒いリュックから封筒を取り出し、床に放り投げた。 封筒の中から札束が飛び出した。 「借りた20万、工面してきた」 チビ兄貴は札束を掴んだ後、あぐらを組み、床に押さえつけられた大将の顔に、自分の顔を近づけた。 お前なぁ利息って言葉知らないのか?お前の借金はもう二百万になってんだ。 「に、ひゃくまん?」 三郎、やっちまえ。 チビ兄貴が三郎に指示を出すと、三郎は左手で大将の首を掴まえたまま、右手で上着のポケットからナイフを取り出した。 俺は、押し入れの隙間から、大将に「蛇を出せー」と必死で叫んだ。 三郎は不器用なのか、ナイフのサヤが片手で外せずもたついている間に、大将が首にかかった三郎の左手を振り払った。 そして、その隙に起き上がり、玄関の方へ逃げた。 その時、玄関のドアが開いた。 部屋の消臭剤みたいな匂いと一緒に、豹柄のワンピースを着て、数珠のようなネックレスをしたド派手なおばさんが入ってきた。 ナイフを振りかざしている三郎を見たおばさんは、自分の持っている蛇の皮でできたようなカバンを振り回し大声で叫んだ。 「私の息子に何やってんだ!この馬鹿野郎」 おばさんを見た大将が叫んだ「ママ!」 おばさんのバックのパンチにダメージを受けた三郎は、ナイフを落とし、鼻から血を流しながら、痛そうに屈み込んだ。 もう何がないんだかわからない。 三郎の後ろからちび兄貴が顔を出した。 「この馬鹿息子の母親か?悪いけど、息子には死んでもらうぞ、それが嫌なら今すぐここに二百万耳揃えて出してもらおうか」 「二百万て大ちゃん、あんたまたギャンブルやったの?」 「俺が殺されようがママには関係ないだろ、出て行けよ」 「なんてこと言うのよ、ママはあんたのために必死で好きでもない男と結婚して、あんたを大学に行かせるために金の工面してきたのよ。 でももう少しだから、もう少しでもっともっと大金が手に入るのよ。 だから、真面目に頑張らなきゃ」 「取り込み中のとこ悪いけどな、二百万払えねぇんだったら、けじめつけてもらわねーとなぁ。命でよう」 「うるさいね、二百万ぐらい払ってやるよ」 おばさんは武器にもなるグロテスクなバックから、札束を2つ取り出し、ちび兄貴のほっぺたに叩きつけた。 「ばか息子じゃないからね。ボケ、とっとと帰りな」 ちび兄貴は不器用そうな指で必死で札束を数えている。 大将は下を向いていて、どんな表情をしているのかわからない。 「今から銀座に行って、大ちゃんとおいしいもんでも食べようかなぁと思ってきたのに、まぁいいわ。すぐに遺産が全部手に入るからね。 そうなったら一生銀座で毎日フレンチでも回ってない寿司でも贅沢三昧してやるんだ。 大ちゃんもう少しの辛抱だからね」 その時、智史が俺を押しのけ押し入れのドアを開け、部屋に入った。 「お母さん」 智史が、ポツリとそう言った。 えーっどういうこと? 俺は押し入れの中で、もう全く展開が読めなくなった。 おばさんの狼狽ぶりは、すごかった。 鼻の穴から泡でも出てくるんじゃないかと思った。 「お母さんだったんだね。僕の命を狙ってたの」 おばさんの後ろで、お金を数えていたちび兄貴も、口からシャボン玉を吹きそうな顔で、手を止めた。 「さ、智史ちゃん、なんでここにいるの?」 「お金は全部あげる。家も全部あげるよ。 だから、もう僕の命を狙うのはやめて、僕は一人で生きていくから」 「ま、まさか、あんた依頼主か?七海智史の。 ひでぇ話だなぁ。まぁ、俺らには関係ねーけどね」 ちび兄貴が言うと、おばさんはしまったと言う顔をした後、怖すぎる作り笑顔に戻った。 「お母さんがあなたの命を狙うわけないじゃない。それはお父さんが亡くなった後、忙しくて、全然家に帰れなかったけど、智史ちゃんのことが心配で心配でね。 でもねぇ、お金の事はいろいろ大変だから……。 今言ったことほんとなのかな? その……お金をお母さんに全部くれるとかそういう話」 智史がうなずくのが見えた。 おばさんは、智史を抱きしめた。 智史は人形のように固まっていた。 「じゃあここに一筆書いてくれる?それと家に帰ってから通帳と印鑑お願いね。 もちろん、智史ちゃんのために使うことが多いからね。 大ちゃん、何か書くもの貸してちょうだい」 それまで黙って話を聞いていた大将がスマホを取り出し、どこかに電話した。 「新高島駅の東出口を降りてすぐにある千草マンションです。すぐに来てください。 ババアが子供を殺そうと……」 慌てておばさんが大将のスマホを取り上げて投げ捨てた。 「大ちゃん、何のつもり?あんたのために今までこんなに頑張って、生きてきたのに」 「もうやめてくれ。金なんていらないから、真っ当に生きてくれよ。こんな子供にまで。 俺はそんな金で生きていきたくなんかないんだ」 「やばい、サツが来る前にづらかろう」 ちび兄貴は、そう叫びながら、三郎と部屋を慌てて出て行った。 おばさんも、智史の手をつかみ、慌てて部屋を出ようとした。 智史はなぜか抵抗しなかった。 出血がひどくぐったりしていたアジが起き上がり、押し入れから飛び出して、玄関のほうへ駆け寄り智史の手をつかんで、連れ戻そうとした。 そしておばさんと、揉み合いになった。 俺は押し入れの戸を開けただけで、何もできず立ち尽くしていた。 ただ、血だらけのアジに、がんばれ、と言うしかなかった。 大将は放心状態になって、膝から崩れ落ち大声で泣いていた。 検討も虚しく血まみれのアジは、おばさんのひざ蹴りで倒れ込んだ。 おばさんは再び玄関のほうに向かうが、アジは再び起き上がり、玄関の前に立ちはだかった。 おばさんは再び膝蹴りを交わしたが、アジは動かなかった。 目は虚ろで、口から泡のようなものを拭いているが、体だけは智史をガードしていた。 アジすごいぞ。 でも、死んじまうぞ。 もう頑張らなくていい。俺はそんな気持ちになっていた。 おばさんは、智史の手を一度放し、玄関横の台所に向かい、流しの扉を開けて包丁を取り出した。 そして、アジの方に包丁の先を向けた。 「ハハハハハ、ここは息子の家、包丁を買ってここに刺したの私なんだよ、知ってた? お遊びじゃないんだよ、こっちだって必死なんだよ、死にたいのかい?」 微動だにしないアジにめがけて、おばさんは、包丁を振り上げた。 俺は目をつぶった。衝撃すぎる。 静かだった。 「さ、智史ちゃん、どきなさい」 うっすら目を開けてみると、智史がアジの前に走り込み、小さな両手を目一杯広げて、おばさんを見つめていた。 おばさんは、一瞬ひるんだが獣のような声を絞り出し「もうみんなやっちゃうよ」と叫んだ後、包丁を一度後ろに引いてそして前に突き出した。 一瞬だった、その時なぜか俺は智史の前に飛び出していた。 包丁の先が俺の左胸、多分心臓あたりにコミットした。 一度肋骨かどこかに先っぽが当たったのだろうか、少しの抵抗を覚えたが、さらに深く入り込んだ。 滴り落ちる生暖かい鮮血。 その時、後ろのドアが開いて、複数人の警官らしき男が入ってきて、おばさんが羽交い締めにされているのがスローモーションのようにぼんやりと見えた。 そして、俺は気を失った。   誰かが泣いている声がする。 俺のママのせいで……お前を犠牲にして本当に悪かった。 こんなに早く別れの日が来るなんて……。 ん?俺のお通夜か? 泣いてくれてるのは大将か? あぁ死んじまったよ。お前が俺を巻き込んだせいでな。 悪気はなかったにせよ。 だけど偉いよなぁ俺、あの子かばったんだもん。 タメ口で生意気だけど、まだ子供だ。 俺が誰かを助けることなんてあると思わなかった。しかも命かけてまで…… まぁどうせ一週間前には殺さてた命だ。 東京湾でな。 「元気出してください」 誰かが大将を慰めている。 智史か? 俺が助けたんだぞ、覚えといてくれよ。 幸せになれよ、お父ちゃん、お母ちゃんがいなくてもな。 俺はそろそろ三途の川を渡るのだろうか?川の向こうに美女がいるらしい。 どこにいるんだ? 大将が泣きながら叫び出した。 「違うんだ、俺が悲しいのは自分が助けに行けばよかったってことさ」 俺は心の中でうなずいた、そうだそうだ。 「なのに、あいつを差し出して身代わりにしちまった。俺の命の代わりに……」 いや、自分の意思で言った、差し出されてねぇ、何言ってんだ。 「ミンナノイノチヲ タスケタンデスカラ、テアツクホウムッテアゲテクダサイ。 モウコレデ、ジュニアモイノチヲネラワレルコトハナクナリマス。 ソレカイッソ、ショウチュウニツケテ、サケニシテ、ノムッテノモアリジャナイデスカ? ソンナニアイシテタンダッタラ」 「これはアジの声か?」 あいつ無事だったんだ。 ん???俺を焼酎漬けにするのか。 「そうだなぁ…。大きな瓶がいるなぁ」 何言ってやがる大将、俺は瓶の中になんか入らないからなクソが。 「クソ野郎ー!」 自分の声に驚いた。 これは現実なのか夢なのか。 真っ白な部屋、ベッドの上に寝かされている俺。 泣きじゃくっている大将の顔。やばい。 隣のベッドには点滴を打ちながら、牛丼を食っているアジの姿。 「メザメテマスー」 大将も俺の方を見た。 いや、俺生きてる? 刺されてあんなに出血してたのに? 俺が死んで大将めっちゃ泣いてたよな。 まさか、そんなわけない、夢なのか? 俺は自分で自分のほっぺたを三発ほど叩いてみた。 痛いことがこんな嬉しいって思えるんだ。 アジのベッドの向こう側には、智史が座っている。 うれしそうに俺の顔見てにこっと笑った。 俺は体を起こし、しましま模様の寝巻きを解いて、傷口を確かめた。 かすり傷一つない綺麗な体。 俺は思わず叫んだ。 「ない!ない!傷口がないどこいったんだ?傷口からあんなに血が出てたじゃないか」 大将が泣くのをやめて、不思議そうにぽかんとした顔で俺を見た。 「俺の心臓に刺さってたよなぁナイフ。血まみれだったもん。俺」 大将が真っ赤な目で首を横に振った。 「ラブちゃんが身代わりになってくれたんだよ、本当は俺がお前を守るべきだったのに……俺はラブちゃんを差し出してしまった。ラブちゃんは俺のために死んだんだ。俺が殺したんだ〜」 最後は声にならない声で大将は悶絶した。 そうなのか……。 「デモオナカカラタクサン、ネズミデテマシタヨ、ネズミサンモ、チョットキョウリョクシタンジャナイデスカ」 アジの心ない言葉に、大将はまた泣き出した。 智史が止めに入った。 「アジ、やめろ。僕のお兄さんだぞ」 了
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