1 砂浜・邂逅・天使

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 澄んだ輸液が細胞に巡る感覚はそのままで、私は足を止めた。その心地好さ故に、この黒瞳は疑念で濁る。悪意ある厭な想像をするなら、天使はこの世界を何も知らない私を騙す狼の類かも知れない。息が届く距離になれば小さな口に隠していた牙を曝け出して、血液を啜って愉悦で頬を朱色に染めるのだ。その声も顔も身姿も、全ては化けの皮に包まれた虚偽で、心の防波堤を突破する為に編み込まれた物では無い、と言い切れる証拠は何処にも無い。    痛みの手綱を強く握りしめて前を向く。この世界が幾許(いくばく)の美しさを湛えようと、理不尽は雑多な瓦礫となってこの身を押し潰す。逃れるには最初からそれに近づかない努力をすべきなのだ。喩え全てが徒労に終わろうとも。 「もしかして、私の事が分からないの?」    哀願を籠めた眼差しが私の体に突き刺さる。神秘性と装飾に目を瞑れば、そこには等身大の可憐な少女が泣きそうな顔で居るだけで、私が数歩歩けばその涙腺を縫い留められる。 「じゃあ、私との約束も……」 「……殆ど記憶が無いの、私。自分の名前もあなたの事も何にも知らないし、気が付いたらこの砂浜で歩いてて」    天使は酷く青ざめた表情で、蒼く透き通った双眸をまた潤ませる。私はその一等星の煌めきから逃れようと体を必死に捩らせる。だが、肉体に反して心は既に天使が敵ではないと信じ切っていた。  この世界で初めて言語を介したコミュニケーションが取れた安堵感も理由の一つだったが、それだけではない。ただの浮ついた馬鹿な妄想かも知れないが、何処かでこの天使と永い時を過ごした気がするのだ。ここよりも緩慢な世界で、対等では無くて、それでも互いが互いを独占していた、這わせた明日を先延ばしにする日々を。 「じゃあ、早く思い出しに行かなきゃ!」
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