1 砂浜・邂逅・天使

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 私の瞬きよりも早く近づいた天使が、強引に私の手を掴んで引っ張る。抵抗するのも億劫になる程に熱を帯びた掌が、仮縫いの涙腺と優しい微笑みが私だけに手向けられている。それは逆さまになった三角形の空洞に流れ込む、花鳥風月すら太刀打ちできない幽玄の灯火だった。選んだ解は既に纏われた意識外で背筋を丸め始めている。歯車が動き出す音が心内で弾みをつけて理想を謳っている。    ふと脈絡の無い悪寒を感じて海の方を見ると、沢山の何者かが砂から地面に辿り着いて、手を伸ばして何かを欲している様が見えた。男性も女性も子供も老体も宇宙人も分け隔てなくそこで確かに存在している。私は多分、それら一人一人を救わなければならないのだろう。何故かは知らないが、そう強く想った。天使は前方で逸っている。私は、ただひかれていくだけ。 「ちょっと、何処に連れて行くのよ!」 「あそこだよ!」    天使の指が指し示した先には、先程までは見えなかった巨大な穴が悠然と待ち構えていた。燻る脳内は密かに期待を始めている。数秒前が過去になって現在だけを欲している。穴の淵に辿り着き、数秒後の未来を想う。 「先に行ってて!」    数秒後がやってきた時、私は右肩を軽く押されて姿勢が崩れていた。そのまま重力に一方的に惹かれて落ちていく刹那、私は見た。天使は悪意ある狼などではなかった。代わりにそれは月夜に孤独に輝く星の様に美しかった。剣の代替品として古びた柄杓(ひしゃく)を持った一等星が煌めいて網膜に焼き付く。目線の端に映った沢山の腕に天使が呑み込まれていく。剛健な羽を持たない私の両手は届かない。 「みんな、貴女の特別に成りたいの」    呟かれた言葉を最後に私は墜ちていく。交わした約束も名前も何も知らないままで、揃わない歩幅と距離を呪う。星は遠くなっていく。  空気を必死に藻掻いて落下に抗おうとするが矮小な生物の落下は一向に止まらない。何故私は甘い期待を楽しんでいたのだろう。今、こんなに寒くて怖くて堪らないのに。不可視の傷口だけが繰り返し震えて、別離の瞬間を瘡蓋(かさぶた)にしようとする。    落ちていく。独りで。
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