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その意味
夕暮れの町が静かに暗くなりつつあった。
少しくたびれた中年男性、田村慎一は川沿いの古いカフェのテラスに、座っていた。
田村慎一は、仕事に追われる毎日から解放されることはなく、すっかり疲れ切っていた。そんな彼が、この町を訪れるのは十年ぶりだった。
今はただ、過去の思い出に浸りたかった。
このカフェに来るのも何年ぶりだろう。
テラスに座っていると、古いラジオから流れる音楽が心に残った。慎一は、かつてここで過ごした青春の日々を思い出しながら、湯気の立つコーヒーを一口すすった。ふと、目の前にいた若いカップルが笑い合っている姿が目に入り、慎一の心に微かな切なさが湧いた。
「もう一度だけ、あの頃に戻りたいな…」慎一は呟いた。その時、カフェの店員がやって来て、彼のテーブルに小さな紙切れを置いた。紙には「あと一回」とだけ書かれていた。
慎一は驚きと共にその紙を見つめた。何の意味もないメモかもしれない。
しかし、直感的にその言葉が自分に何かを伝えようとしているように感じ、慎一は一瞬ためらった後、その紙を折りたたみポケットにしまい込んだ。
カフェを出て、帰り道を歩くうちに、慎一は昔よく行っていた公園に立ち寄ることに決めた。
公園には、小さな噴水と色とりどりの花が咲き乱れていた。ここには、若かりし日の自分と、愛していた人との思い出がたくさん詰まっている場所だった。
公園のベンチに座り、目を閉じると、かつての楽しい時間が鮮やかに蘇った。
笑い声や、手をつないで歩いた道、そして彼女の優しい笑顔。
慎一は思い出の中に浸りながら、心の中で「あと一回だけ、あの時のように…」と願った。
ふと、背後から声が聞こえた。
「慎一さん?」
振り向くと、そこにはかつての恋人、由美が立っていた。
彼女の瞳には驚きと涙が混じっていた。
慎一は胸が高鳴り、目頭が熱くなった。
長い間忘れていた感情が、一気に溢れ出してきた。
「由美…」
慎一は声を震わせながら呼びかけた。由美も静かに頷き、彼の隣に座った。
二人はゆっくりと、過去の思い出を語り合い、再び心を通わせていった。
由美も慎一と同じように疲れ切ってカフェに行った時にマスターから「あと一回」と書いた紙を渡されたのだという。
色々な予定があったので、日は立ってしまったが、今日思い立ってこの公園に来たのだそうだ。
その時、慎一は「あと一回」の意味を理解した。
それは、過去に戻ることではなく、今この瞬間に再び心を通わせることだったのだ。
あのカフェのマスターには何か不思議な力があったのだろうか。
夕焼けが公園をオレンジ色に染める中、慎一と由美は次に会う約束をして、手をつなぎながら駅に向かって歩き出した。
過去の思い出に再び命を吹き込むことで、新たな始まりを迎えたのだった。
【了】
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