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第6話
黄金の荊棘(いばら) 第6話
午前9時半を少し過ぎた頃、倉橋の姿が住宅街の路地に現れた。
初夏の日差しが強くなり始める中、倉橋はダークカラーのジャージ姿にスニーカー、腰には少し大きめのチェストバッグを下げていた。チェストバッグの中には、100均で購入した道具類一式が詰め込まれている。一見すると、朝のジョギングを楽しむ一般市民にしか見えない姿だった。
しかし、倉橋の胸の内は穏やかではない。心臓の鼓動が耳に響き、額には薄い汗が浮かんでいる。
「大丈夫、問題ない」
何度も自分に言い聞かせながら、倉橋は桐嶋と藤堂が指示した『秘密のルート』の入り口へと足を向けた。路地を進むにつれ、周囲の建物が迫ってくるような圧迫感を覚える。
「ここか」
民家と民家の間の狭い隙間が目に入った。普通なら目もくれない場所だ。
実際に見ると確かに子供なら歩けそうな幅はある。しかし、倉橋の体格では、横向きになりスライドしていくしかなさそうだった。
周囲を慎重に確認する。人気はない。ただ、遠くで犬の鳴き声が聞こえ、倉橋は一瞬身を固くした。
深呼吸をして落ち着きを取り戻すと、隙間に体を滑り込ませた。
幾分か進んだところで、チェストバッグが壁に引っかかり小さな音を立てた。静寂の中でこの音が異様に大きく感じられ、倉橋は息を止めて周囲の反応を窺った。民家の影になり直射日光は避けられているものの、蒸し暑い温度が体温と心拍数をさらに上げていく。
幸い、異変に気づかれた様子はない。ほっと胸をなで下ろした倉橋だったが、安堵も束の間、次の難関が待っていた。
民家の庭に面した場所を通らなければならないのだ。
「うそだろ・・・ここを通れって?」
倉橋は躊躇したが、後には引けない。身を低くし、忍び足で庭を横切り始めた。その時、庭の隅に置かれた植木鉢に足を引っかけてしまう。
ガタン!
植木鉢が動いた音は、実際の音量以上に大きく聞こえた。
「しまった!」
即座に身を伏せ、息を殺した。家の中から物音がする。
心臓が高鳴る。発見されれば全てが台無しだ。庭木の陰に身を隠し、ほとんど呼吸を止めたような状態で動かずにいた。
「ん? 気のせいか」
家の中の人物がそうつぶやき、窓が閉まる音がした。倉橋は、まるで永遠とも思えるほどの時間が過ぎ去ったように感じた。
ようやく安全を確認すると再び動き出す。残りのルートも決して楽ではなかったが、先ほどまでの危機は訪れなかった。
そして、ついに悠彩堂の裏手に到着。説明通りの窓が見える。しかし、そこには予想外の障害が待ち受けていた。
蜘蛛の巣だ。
大きな蜘蛛が巣の中央で獲物を待ち構えている。
倉橋は、足がたくさんある虫が苦手だった。他の虫はそこまでではないのだが、蜘蛛やムカデといった足がたくさんある虫だけは生理的な恐怖感を感じてしまう。
一瞬たじろいだが、ここで引き返すわけにはいかない。目を閉じ、歯を食いしばって蜘蛛の巣を払いのけ、窓の真下にたどりついた。
窓に爪をかけるとかすかに動いた。
倉橋は手袋をして、移し替えた油が入っている小さなプラスチックのボトルをとりだし、慎重にサッシのレールに油を流した。
その時に再確認して気づいたのだが、思ったよりも窓が小さい。
「懸垂苦手なんだよなぁ」
狭い場所から体を引き上げようとする。
何度も脳内シミュレーションをおこない、成功のイメージがついたところで実行した。腕と腹筋がぷるぷると震えた。
ようやく窓枠のところに体を引き上げることができた。
途中、ブロック塀にあった小さなでっぱりに足をかけることができたので、態勢を保持できている。
体のバランスを崩さないようにチェストバッグからルームシューズを取り出し、スニーカーにかぶせる。
窓から室内に入ったがフェルト底のおかげで音がほとんどしない。想定通りではあるが、自分の用意周到さに密かに満足した。
物置と説明を受けた場所は埃っぽく、かすかにカビの匂いがする。倉橋は、周囲を確認しながら店内へと進む。
「鍵は1階の居間・・・」
桐嶋の指示を思い出し、足元を確認しながら先に進んだ。
居間に到着した倉橋は、桐嶋が描いたイラストを頼りに鍵の在処を探し始める。
見つけた。
その瞬間、外から車の音が聞こえてきた。そして、店の前で止まる。
倉橋の背筋が凍りつく。誰か来たのか!?
ブレーキランプの赤い光がかすかに見える。
波打つ脈拍を感じる。
無意識に呼吸を止めていた倉橋だったが、やがて車は通りすぎていった。
大きく息を吐き、再び鍵を確認した。
木彫りの熊のキーホルダーが邪魔だったが、そのままチェストバッグに入れた。
「桐嶋さん、終わりました。回収完了です」
車に戻った倉橋は、汗だくになりながら桐嶋に電話をかけていた。エアコンの風が冷たく感じる。
「おまえは無事なんだな」
「無事です。誰にも見つかっていませんし、完璧だと自画自賛したいくらいですよ。ご指示通り、木彫りの熊ちゃんを保護しました」
倉橋の言い方は桐嶋の笑みを誘った。
「ありがとう。助かったよ」
「どういたしまして」
つけたままだった手袋に気が付き、脱ぎ捨てると手のひらにも風をあてる。
「どこかでシャワーを浴びてからそちらに行きますね。さすがにこれじゃ気持ちが悪い」
ジャージのジッパーを半分おろし、シャツの首元部分をゆるめて空気を送り込む。
「了解した。気を付けて」
「はい」
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