第4話

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6563b05a-d6a1-42ee-b1d0-181f88f95e39  「グルリット事件」とは、2012年にドイツで起きたナチス時代に関連する美術品をめぐる大規模な発見と、それに続く複雑な問題のことである。  事件の発端は、コルネリウス・グルリットという人物がスイスから鉄道でドイツへの移動中に多額の現金を所持していたことにより脱税を疑われたことから始まった。  当時の欧米諸国はリーマンショックによる税収減が著しく、税収確保のため脱税取締の厳格化をおこなっていた。その脱税の温床になっている可能性があるという疑惑を各国から向けられたのが、かの有名なスイスの各銀行だった。  なお、よく言われる「スイス銀行」という名称の銀行は存在しない。「スイス銀行」という言葉が使われる際、多くの場合はプライベートバンクを指している。  疑惑は各国からの訴訟に発展し、スイス政府が仲立ちをしていたが、その結果、アメリカ政府からの圧力により、かのヒトラーすら退けたスイスの銀行機密法が改正された。  コルネリウスは、そのスイスの銀行口座による脱税の疑いで家宅捜索を受けることになったのである。  ミュンヘン郊外のコルネリウスが住むアパートで税務署員が見たのは、賞味期限の切れた缶詰と1280点にも及ぶ美術品だった。  またその後の調べでオーストリアのザルツブルクにある別邸でも238点が見つかり、彼の所有する美術品は時価総額20億ドルとも言われた。これらの美術品の出展はどこか。それは彼の父親にあった。  コルネリウスの父親、ヒルデブランド・グルリットは「リンツ特命」と呼ばれる総統美術館設立準備のための作品選考委員だった。  ナチスは占領地域から数十万点の美術品を略奪したと言われているが、明確に二種類に分けられていた。それはヒトラーが「好む」か「好まない」か。  ヒトラーが「好む」作品はリンツに設立予定だった総統美術館に収蔵され、ヒトラーが「好まない」作品は「退廃芸術」というレッテルを貼られ、ナチスの収入源の一つとして各方面に売却された。  略奪され、ないしは収集された美術品の多くは連合軍によるドレスデンへの爆撃により焼失したと言われてきたが、そうではない作品群も多数あったことがグルリット事件によって明らかになった。  そしてそれらが父親が亡くなった後コルネリウスに相続されているわけだが、その時に相続税は発生していない。  なぜならば、グルリット一家は住民登録をおこなっておらず、社会保険にも加入せず、銀行口座も持たず、社会との関わりを完全に絶ったうえで必要な時に絵を売却して生計をたてていたからだ。  このように驚くべきことばかりのグルリット事件だが、真相そのものは今後も明らかになることはない。  2014年5月7日、コルネリウス・グルリットは81歳で謎に満ちた生涯に幕を降ろした。 「この事件が報道されたのが、ちょうど貧乏旅行でドイツに滞在していた時だったのでよく覚えてるんすよ。安酒場のつまみにはことかかなかったっすねぇ」  鳴海の表情に懐かしむような笑みがこぼれた。 「つまり鳴海は、今回の絵がグルリット事件に類似したなにかの絵だと?」 「可能性の一つとしてですよ。ほら、昔から小説とかのネタであったじゃないですか。Uボートで日本に亡命してきたナチス高官とか、ヒトラーの遺産が日本にある!とか。与太話のたぐいではないっすけど、当時のドイツと日本を考えると実際にあってもおかしくないとは思うっすよ」  鳴海の言葉に、桐嶋と倉橋は深く考え込んだ。 「クリムト作品は、ヒトラーによって退廃芸術だとみなされたと記憶してますが」 「確かにそうだ。しかもナチスがオーストリアに侵攻した際、大量のクリムト作品が略奪や暴力を背景として安値で購入されたのは事実だよ」  倉橋は考えながら鳴海に応えた。そして桐嶋の表情がいろいろ変化していることに気が付いた。 「桐嶋さん、どうかしました?」 「いや、ちょっとな、気になることがあって」  桐嶋はメールを打ち始めた。宛先は藤堂だ。打ち終わったところで口を開いた。その声には緊張感が増していた。 「仮に、仮にだ。あの絵がナチスの遺産だったとして、かつ鷺沼氏が何者かに殺されたとした場合、鷺沼氏を殺害した犯人はあの絵を躍起になって探してるよな」 「でしょうね。資産価値1億ドル以上の可能性がある絵を手に入れるためだったら、人一人の命なんてめちゃくちゃ軽く感じる人種は世界中どこにでもいるっすよ。ただ、鷺沼氏が来日してからの時系列を考えると、なぜそのタイミングで殺したのかという謎は残ると思うっす。だって、そうでしょ。彼の手に絵があった可能性があるのは桐嶋さんに会う前日までなんですから。絵を手に入れるためだけに殺すのなら、絵がその場にある状態じゃないと効率が悪すぎます」  鳴海の分析は鋭かった。その言葉に、桐嶋と倉橋は深く頷いた。 「だよな。鷺沼氏が亡くなったのはホテルのロビーという人の目が多数ある場所だ。そして病死や自然死ともとれる倒れ方をしている以上、物取り目的だけの犯行には思えないんだよなぁ」 「だとすると他の理由が?」 「彼の手に絵が残っていないからこそ殺されたという見方もできると思ってね。『なんだよ、こいつ持ってねぇのかよ!むかつく!やっちまえ!』ってな」 「なんすかそれ。一昔前にいたニューヨークのチンピラみたいなもんじゃないすか」 そういう現場に居合わせたことがある鳴海が当時を思い出して笑いだした。 「でもそれって心情的にはわかる話ですよね。元から殺してでも手に入れようと思ってた人物がいたとすればそうなってもおかしくはない」 倉橋の言葉に、桐嶋は深く頷いた。 「用済みだからとか、テレビドラマみたいな展開の可能性もあるけど、そういう心情の結果と考えるとしっくりくるんだよなぁ」  その時、桐嶋のスマホが鳴り響いた。藤堂からの着信だ。桐嶋は二人にも聞こえるようにスピーカーでつないだ。 「桐嶋!どういうことだ!なぜおまえが検証結果の成分を知っている!?」  藤堂の怒声が響き渡った。その声の激しさに、倉橋と鳴海が思わず首をすくめる。 「なにをメールしたんすか」  鳴海の声には、好奇心と不安が混ざっていた。 「毒殺の可能性があると判断した成分に、ヘレブリンとタキシンがなかったかとね」 「なんすかそれ」 「ある植物がもつ毒だよ。特にタキシンは強力」 「おい!どうなんだ桐嶋!」  藤堂の声には、怒りと焦りが滲んでいた。 「詳しい説明をしたいけどね。まだ憶測の段階だから会った時に話すよ」 「この野郎」  藤堂の歯ぎしりがかすかに聞こえる。その音に、倉橋と鳴海は思わず顔を見合わせた。 「夕方にはそっちに行く!聞かせてもらうぞ!」 「わかったよ、待ってる」  直後に電話は切れた。部屋に重苦しい沈黙が流れる。 「さて、納得がいく説明をしないと藤堂の怒りが頂点に達しそうだから準備するかぁ」  桐嶋の声には、少し疲れが混じっていた。 「あのー、こちらにも説明が欲しいのですが」  右手を挙げながら、不安と好奇心が入り混じった表情の倉橋がつぶやく。 「そうだな、藤堂が合流したら話すよ。おれもまさかという気分が強いから整理する時間をくれ。鳴海はどうする?そろそろ本庁に戻る時間か?」  先ほど鳴海が腕時計をチラ見していたことを思い出して確認した。 「そうっすね。今日はもう本庁に戻ります。桐嶋さんの説明をライブで聞きたいとこですが、今晩は先約が入っているので・・・あとで資料お願いしたいっす」 「資料は大丈夫だ。また倉橋が作ってくれる」 「了解です」  倉橋が右手の親指を挙げて了解の意思を示す。その仕草に、三人の間に一瞬の和やかな空気が流れた。 「詮索するようで悪いが、鳴海の今晩の予定は飲み会か?」 「いやー、飲み会っちゃあ飲み会っすけど、あまり面白くなさそうなやつです。アメリカ大使館で情報交換会という名のパーティーに、上役の通訳としてお供するもので。下っ端はつらいっすよ」  鳴海の声には、少し苦笑いが混じっていた。 「じゃあ、鷺沼氏の来日記録や税関記録の確認はよろしくな」 「任されました」 「あと、倉橋には例の作品に使われている顔料の調査を依頼したい。見た限りでも同時代のクリムト作品と同じ顔料を使用していると思うが、万全を期したいので念のため調べてくれるか?」 「わかりました。サンプルを少しもらっていきますね。あとはあれかな、カドミウムフリーになっていないカドミウムイエローも準備しますね。顔料の調合は大丈夫ですか?」 「大丈夫だ。クリムト作品は以前に何枚か修復したことがあるからだいたい覚えている」 「正直、そんな人、日本にはまずいませんよ」  倉橋の呆れた笑いがもれる。 「鷺沼氏が桐嶋さんに依頼するのがわかりますね。おれでもそうします」 「買いかぶりだよ」  桐嶋は面映ゆい気持ちで苦笑した。その表情には、長年の経験から来る自信と、同時に謙遜の色が混ざっていた。 「さて、じゃあ動くとするか」 「承知しました」「っす」  三人の声が重なり、部屋に新たな決意が満ちる。大きく流れが動きそうな展開に、三人の心は期待と緊張で高鳴っていた。 (第4話 終)
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