第5話

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f1950554-c839-4d52-aae2-1ad8cc34bb74  桐嶋は手元のコップになにも入っていないことに気が付いた。  時計を見ると午後9時半。ずいぶん長いこと物思いにふけっていたもんだと妙な感心をする。  夕食は早い時間にカップラーメンで済ませていたが、さすがにこの時間になると小腹がすいてくる。  その辺に置いてあった、かき燻製油漬けの缶詰を開け、冷蔵庫から日本酒をとりだし空いていたコップに注いだ。 「親父はいったい誰といたんだ」  最も疑問に思っていたことが独り言になった。  状況から考えれば一人でいたことは考えにくい。おぼろげな記憶をたどると、10日も滞在していたわりにはゴミも少なかったように思う。 「あの辺りにゴミ収集がくるわけがないしな」  一つ思いつくと次々とおかしげなことが思い出されてくる。  なぜ郵政職員があのタイミングで配達にきたのだろうか。DMなわけはないし、配達された郵便をもらった記憶がない。もしかしたらポストの中に入ったままだろうか。疑問符ばかりだが、5年前の記憶を鮮明に思い出せるわけがない。推測ばかりになるのがもどかしい。 「やはり現地で確認したいよなあ」  しかし、藤堂から外出禁止令がでている以上、出歩けば迷惑がかかることくらい子供でもわかる。  思案しつつ、頬杖をつきながら日本酒の量を確認していた時、スマホのメール着信音が鳴った。 「鳴海か」  内容を確認すると件名はなく、名刺の写真だけが送られてきていた。  Monuments Men and Women Foundation  Research Assistant  Caroline Bell Winston  名前を見ても記憶がない。  首をかしげていると鳴海から電話がかかってきた。 「鳴海。この名刺は?あと倉橋から資料は送られてきたか?」 「わーん、桐嶋さんのバカーーーー!!!」 「・・・なんだよ、いきなり」  大声の音量を忌避した桐嶋は反射的に耳から離した。声が聞こえなくなったことを確認してから戻す。 「なんだよ、どうしたんだ」 「ただのやつあたりっすよ。気にしないでください。あと、資料はついさっき確認したっす」 「じゃあ、気にしないことにするけど、この名刺はなんだ?」 「名前に覚えはないっすか?」 「ないな。ちょうどそれを考えていたところだ」 「キャロライン・ベル・ウインストン。たぶん20代。でも、幼い顔立ちをしてるのでもう少し下にも見えます。キュートなそばかす顏で知的な眼差しの典型的なアメリカ美人な感じです。濃紺のロングドレスがめちゃくちゃ似合ってたっす」 「・・・話の筋が見えないのだが・・・」  鳴海は彼女と出会った経緯を話した。  アメリカ大使館でのパーティーで、鳴海の上司がウインストン女史を紹介された。その流れで鳴海も名刺交換をしたらしい。鳴海は公安なので社交用の名刺を彼女に渡した。  女史のたたずまいや笑顔が、鳴海の琴線にふれ心臓が跳ね上がったらしいが、それは割愛。  その場はそれで終わりだったのだが、その後、幾人か集まって歓談中に絵画修復の話になり、そこで彼女が桐嶋の名前をだしてきたらしいのだ。  鳴海の状況説明を聞く限り、彼女がそう誘導したようにも思える。 「貴国には優秀な修復家がたくさんいらっしゃるでしょう」  これは鳴海の上司のお仲間による鼻の下を伸ばしながらの言葉。おべっかのつもりだったのだろう。そしてウインストン女史による次の言葉が問題だった。 「なにをおっしゃいますか」  流暢な日本語が少し厚みのある魅力的な唇から流れ出る。 「誰も彼も御国の桐嶋氏にはかないません」 「桐嶋・・・?」 「桐嶋悠斗氏です。5年前までアメリカにいらっしゃいましたが、残念ながら帰国されました。現在は日本にいらっしゃるはずです。何度もあのお方が修復された絵画を拝見しましたが、あれほどの御業を他に見たことがありません」  頬を紅潮させながら話す彼女の瞳は少々潤んでいたらしい。 「ものの数分でおれの恋はおわりました。あれは完全に恋する女性の顏っすよ」 「いや・・・そんなこと言われても」 「彼女は桐嶋さんに是非とも会いたいらしいっすよ!どうします!?」 「はぁ!?」 「おれも上司から『なんとかならんか』とか言われたので、適当に言葉を濁しておきましたけど、桐嶋さんの名前は、おれや藤堂さんの協力者として警視庁の上役だけが見れるデータベースにあるはずですから、探そうと思えば探せてしまうっす。その前におれが橋渡しをすれば、穏便にすますことはできると思うっす」  桐嶋は頭をかかえた。なんでこんな時にそんな話がくるんだ。  その時、桐嶋の脳裏にある案が浮かんだ。 「鳴海、ウインストン女史は大使館にいるのか?」 「日中は大使館にいるらしいっすよ。2週間くらいだったかな」  大使館がらみなら大使館の車が使える。外交官特権で。その車には日本の警察は手をだすことができない。 「会ってみるか」 「本当っすか!?彼女の肩書きも確認しました?」 「ああ、それも込みでだ」 「勝負師っすね」 「ただ、藤堂や倉橋にも情報共有して相談したうえで会いたい。まだ先方には言わないでくれ」 「わかったっす。悪い方に転んだら目も当てらんないっすからね」 「ああ、そうだな。しかし、うまくすれば恩を売ることもできるかもしれん」 「立ち回り次第ってことっすか。おー!背筋がぞくぞくしてくるっすねぇ!」 「楽しんでやがる」 「ちょっと楽しくなってきたっす」 「ところで、おまえのところで例の赤坂署の動きはわかるか?月曜までは藤堂が役立たずだから」 「可能です。赤坂署が状を手配する時の検察もだいたいわかりますので、そっちも手配しときます」  こういうのが公安の怖いところだ。桐嶋は工藤警部補に少しだけ同情した。 「よろしく頼む。じゃあ、後は連絡を待っててくれ。あと、倉橋の上首尾も祈っておいてくれるとうれしい」 「ですね。倉橋さんの成果次第っすね。では、また」 「ああ、またな」  桐嶋は電話をきった。  ウインストン女史の肩書に気づいた時、もう一つの可能性が頭をよぎった。暗闇の中で突如として光る火花のような閃きだった。  今回のクリムトの絵。グスタフ・クリムト、オーストリア出身。  ナチスによるオーストリア侵攻によってクリムトの絵の多くが略奪された。  そして当時、クリムトの絵は裕福なユダヤ人が所有していることが多かったという。  長期間の高温多湿環境。爪の刺し傷と指紋の跡。  これらの事実が、桐嶋の脳裏で一つの可能性へと収束していく。その思考の過程は、まるで複雑な糸がほどけていくかのようだった。 「アンネの日記か・・・」  その言葉が、重い空気の中に静かに響く。桐嶋の表情には、新たな真実に直面した者特有の緊張と覚悟が浮かんでいた。地下室の静寂が、その言葉の重みをさらに増幅させていく。 (第5話 終)
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