第1話

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d70ccb44-4efd-4428-b6cb-8290276beacc  翌日。午前7時50分。  有明西ふ頭公園の釣りエリアに着いた桐嶋は、赤い野球帽をかぶった人物が釣り糸をたれている姿を見つけた。早朝の海風が頬をなで、かすかに潮の香りが漂っていた。東京湾の水面は朝日を受けてきらきらと輝き、遠くには埠頭のクレーンが巨大な影を落としている。  なんとなく周囲を見渡し、目標を注視している人物がいなさそうなことを確認してから近づいた。公園内には早朝のジョギングを楽しむ人々や、犬の散歩をする人たちの姿が点在していたが、誰も彼らに注目していないようだった。 「おはよう。まさか本当に釣りをしているとは思わなかったよ」  足元にある、水の入った小さ目のクーラーボックスにはハゼが2匹泳いでいた。魚の動きに合わせて水面が小さく揺れ、朝日の光を反射している。 「その場所に適したことをしている方が周囲に溶け込みますから」  納得しかけた桐嶋だったが、帽子以外、紺色ジャージ姿の鷺沼には鼻白んだ。まるで昭和の刑事ドラマに出てきそうな出で立ちだった。 「赤い野球帽は目立ち過ぎだと思うけどね」  もっともな桐嶋の意見を鷺沼は無視した。彼の表情は硬く、緊張感が漂っていた。 「そのクーラーボックスの隣にある巾着の中に鍵と手付が入っています。そのままお持ちください」  一千万。大金ではあるが、新札の百万円の帯封は約1cmなので一千万でも10cm程度。古札だとしても半分ずつの束にすれば、さほど大きくない巾着でも楽に入る量だ。桐嶋は巾着を手に取り、その重みを確かめた。 「了解。で、場所は?」 「上野駅です」  桐嶋は巾着の中身を軽く確認しながら上野駅の構内を脳内に描いた。乗降客は多い駅だが、入り組んだ構内のおかげか、複数あるコインロッカーエリアの周辺には人の目が少ないかもしれない。 「なるほどね。わかった。あとは自分でなんとかするとしよう」 「話が早くて助かります。目安としての納期は半年。ただし完璧な仕事をしていただければ伸びても問題ありません。目途がついた時点で電話連絡をお願いします」  鷺沼の声には焦りが混じっているように聞こえた。桐嶋は相手の表情を読み取ろうとしたが、鷺沼は釣り糸を見つめたままだった。 「クリムトだしね、腕を振るわせてもらうよ。その時には完了報酬もお忘れなく」 「修復さえ完璧なら安いものです」  鷺沼の言葉には力があった。これまで短いやりとりではあったが、桐嶋は初めて感情がこもった言葉を聞いた気がした。その瞬間、鷺沼の目に一瞬、不安と期待が交錯するのを見た気がした。  そのまま上野に向かった桐嶋は、鍵の番号から目当てをつけ目的のコインロッカーを探し当てた。上野駅は朝の通勤ラッシュで人々で溢れかえっていたが、コインロッカーエリアは比較的静かだった。  周囲をそれとなく確認してから鍵を回すとスムーズに扉が開いた。 「思ったより小さいな」  ロッカーの中にあったのは60cm四方程度の紙包み。触ると包装の下には保護材が入っているような感触がある。桐嶋は慎重に包みを取り出し脇にかかえた。  グスタフ・クリムトの作品には大きいものが多い。例えば、クリムトの代表作の一つである「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I」は、140cm四方の正方形のキャンバスに描かれている。もちろん例外もあるがクリムトは大き目のサイズを好んだ。  桐嶋はリュックを背負いながら、駅の出口方面に足を向けながら思考を巡らせた。  現代のキャンパスの多くは綿や化繊だが、クリムトの存命時は麻(亜麻)が一般的だった。当然、キャンパスの目は粗く盤面は粗雑だった。クリムトの描く精細な画法ならばやはり大きいキャンパスの方が描きやすかっただろう。  桐嶋はこの紙包みのサイズに違和感を感じた。ウィーン美術アカデミー在学中に学んだ美術史の知識では、クリムト作品の最小サイズは一片が80cm程度と記憶している。紙包みや保護材の厚みを考えれば中身は60cm四方よりもっと小さい。  すぐにでも確認したい衝動にかられたが、その気持ちをこらえて手近なタクシーをつかまえた。向かってもらった先は吾妻橋。団子坂とは真逆だが、タクシーも複数回乗り換え、徒歩も交えて悠彩堂に向かう。  吾妻橋から清澄へ、清澄から小伝馬町へ、小伝馬町から本郷へ。本郷からは歩いた。初夏の陽気の中、汗が滲みでてきた。 桐嶋は、金をもっているからの無駄使いかなとも思ったが、念のための行動だという免罪符を胸に自分の気持ちを落ち着かせた。  悠彩堂にようやくたどり着いた桐嶋は、はやる気持ちを抑えながら店内の倉庫兼作業場に足を踏み入れた。当然のことながら店は施錠済みだ。  悠彩堂には、昔の銀行を思わせるほど大きな金庫がある。その中が倉庫兼作業場なのだ。  広さは畳でいうと20畳を少し超えるほどの広さ。美術品を保管するのに適した温度・湿度・通気のすべてをエアコンが常に調節してくれている。床から離した棚にはいくつもの絵画が並べられ半分以上は布がかけられていた。心地よい画材の香りが鼻腔をくすぐる。  桐嶋は椅子に座ると、紙包みをほどき件の絵をとりだして比較的きれいそうなイーゼルにセットした。 「やはり小さいな」  現状確認のために大型のデジタルノギスで計ると縦52.1cm、横49.3cmのサイズだった。クリムトの作品にしてはかなり小さい部類のものだ。 しかし、丹念に構図やモデルを確認するとある答えが導き出されてきた。 「リパーパシングだな」  リパーパシングとは、元の作品の一部を切り取り新しい作品として再構成することをいう。上辺と右辺の空き具合、モデルの目線や肩の向き、手の組み方等、サイズという疑問を元に状況証拠を集めていけば一目瞭然だった。  桐嶋は絵画に近づき、その細部を注意深く観察した。金箔の装飾が施された背景部分が、照明の柔らかな光を反射して輝いていた。  ただ、事前知識なしに元からこの絵だと言われれば違和感もなく信じられたと思われるくらいに素晴らしい出来ではある。 「作業した人に会って教えを請いたいくらいだ」  桐嶋は様々な角度と距離から写真を次々とっていき、問題となる剥落の状態も確認していった。デジタルカメラのシャッター音が静かな作業場に響く。 「想定していたよりひどくはない・・・が、自然に剥落したものでもなさそうだ」  写真では見た時は剥落だと単純に思ったが、実物を見るとそうではないことがわかった。  桐嶋は眉をひそめ、絵画にさらに近づいた。拡大鏡を手に取り、剥落と思った部分を詳しく調べ始める。  小さい溝のような傷がいくつもあるのだ。 「パレットナイフ?・・・いや、違うな。筆でもないし、ブラシとも異なる」  少し歪んだライン、深くはなく、おそらくゆっくりつけられたであろう傷。桐嶋の頭の中で、様々な可能性が巡る。そして、ある可能性に思い当たった瞬間、背筋に冷たいものを感じた。 「・・・爪・・・?」  その瞬間、桐嶋は急に疲労感に襲われた。長時間の緊張と集中が一気に押し寄せてきたようだ。顔をあげると、壁掛けの時計の針が午前2時を指していた。時間を忘れるほど集中していたようだ。  深いため息をつき、椅子から立ち上がった。体を伸ばすと、関節がきしむ音がした。  彼は絵画を慎重に保管用の棚に収め、作業場を整理した。当分急ぎの仕事がないことを確認してから、ゆっくりと2階の寝室へ向かった。階段を上がりながら、桐嶋の頭の中では今日の出来事が走馬灯のように巡っていた。  寝室に入ると、窓から東京の夜景が見える。遠くに輝くビルの明かりを眺めながら、桐嶋は明日からの修復作業に思いを巡らせた。この絵画の謎、そして依頼の真相。全てが明らかになる日は来るのだろうか。 そんな思いを抱きながら、桐嶋はベッドに横たわった。しかし、その夜は長い間、眠りにつくことができなかった。
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