第7話

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50ccf074-e278-4300-801c-9de9c40b5ed4 「落ち着いたかい?」  桐嶋はハンカチを差し出す。キャリーはそれを大事そうに受け取った。 「ええ・・・」  ハンカチが汚れることを気にしたのかもしれない。桐嶋がうなずいたのを確認してから使い始めた。  それから二人はお互いの年月を埋めるかのように話をした。主にキャリーが、だが。  彼女は控え目に言って天才の部類に入る。  15歳でスキップでジョージタウン大学に入学し、その後、博士号もとったらしい。博士号の件を桐嶋は知らなかったが、どうやら桐嶋が日本に戻ってからのようだ。  卒業後は政府機関で働いていたが、2年前に財団にスカウトされた。これは本人の希望もあったようだ。  アメリカでは、彼女のような優秀な人材は、データサイエンティスト、政策アナリスト、エグゼクティブディレクターといった職種や公共的な職種につくことが多い。  桐嶋は、なぜ財団に入ったのか聞いたがはっきりとは教えてくれなかった。  兄のクリストファーは、NSC(国家安全保障会議)のスタッフとして、父親を補佐しているとのこと。  クリストファーは8歳下のキャリーを溺愛していた。護衛を三人もつけたのも彼だろう。  キャリーは桐嶋のことも聞きたがった。日本の戻ってからの5年間のこと。あまり話すこともなかったが、悠彩堂での日常のことなどを話した。  そして桐嶋は今日の本来の目的のことを話そうか迷い始めていた。  タフな交渉になるだろうと予想し、かなりの気合いを入れていたはずだが、相手がソフィの従弟だとわかったため躊躇したのだ。  しかし、そのことを話さなければ、なんのために藤堂、倉橋、鳴海に尽力してもらったのかわからなくなる。  桐嶋は意を決して本題に入ることにした。 「キャリー、今日は君に相談したいことがあってやってきたんだ」  彼女の顏が更に明るくなる。 「悠斗兄様の相談!?なに!?なんでも言って!私にできることならなんでもするから!」  ものすごい食いつきだ。他の人にそんなこと言っちゃいけないよ?と桐嶋は苦言を呈しながらスマホの画面を彼女に見せた。 「これはクリムト?」  キャリーの表情が一気に仕事の顏に転じた。声色まで少し変わっている。 「ああ、おれの見立てでは真作だ。そしてこの絵のおかげで面倒なことになっている」 「兄様、これをどこで」  桐嶋はここ数日のことを彼女に説明した。  鷺沼氏からこの絵の修復依頼を受けたこと。  鷺沼氏が亡くなったこと。それは毒殺の可能性があること。  そのことで桐嶋自身が警察から疑われていること。  桐嶋の父親と鷺沼氏の死体検案書における一致点については伝えるか迷ったが全部話すことにした。つまり、ヘレブリンとタキシンの検出された成分量がほぼ一緒だったこと。  この絵がナチスの略奪品ではないかと疑っていること。  そして日本にずっとあった可能性があること。  結局、包み隠さず話したと思う。抜けはないと思うが原稿を作ったわけではないのでわからない。もしあったら都度説明すればいいだろうと、桐嶋は、少し心の余裕もでてきていた。  彼女はスマホの画面と桐嶋の顏を交互に見つめながら話を聞いていた。  話が終わった頃、彼女の指の動きも止まった。  キャリーが見つめていたのは、あのよくわからないラテン語の画面だった。 「Aura Noctis(アウラ・ノクティス)・・・」 「あれ?そうだったか?Aurae Noctisだったと思うが」 「いえ、アウラ・ノクティスとは、とある組織の名前です。イヴリン!」  キャリーの声に反応して、先ほど案内してくれた女性が入室してきた。 「財団のパソコンが入ったケースをお願い」 「かしこまりました」  打てば響くような即答だ。イヴリンと呼ばれた女性の直立した姿勢もあいまって小気味よく感じる。 「キャリー、Aura Noctisってなんだ?」  桐嶋は尋ねた。キャリーはイヴリンが持ってきてくれたノートパソコンを起動させながら答える。 「いわゆる裏の世界で美術品売買をおこなっている組織です。彼らは、ナチスがらみの美術品をもっとも多く売買し、さらに隠し持っていると財団では考えています」  キャリーは一瞬言いよどんだが言葉を続けた。 「一説には、神聖ローマ帝国時代から続いている秘密結社だとか。イチイの木とクリスマスローズをモチーフにした紋章まで持っています」  桐嶋の体がかすかに揺れた。 「そうです。ヘレブリンとタキシン。彼らは、その紋章に使用している植物から抽出した成分が、死後も残るように調整した毒薬を使います。毒薬の名は『ソムヌス』。ラテン語で『眠り』という意味をもちます」 「じゃあ、親父と鷺沼氏は」 「ええ、残念ながら、アウラ・ノクティスに殺害された可能性が高いです。見てください。財団が調査した資料の抜粋ですが、近年、アウラ・ノクティスの手にかかったと思われる犠牲者です」 キャリーが桐嶋に向けたノートパソコンの画面には、犠牲者の死体検案書らしき一覧が表示されていた。検出成分には、もはや見慣れた数字が、ほぼ同じ値で並んでいる。 「犠牲者にほぼ共通することは、画商か絵画修復家です。私たちの調査では、2018年頃からアウラ・ノクティスが世界中で活発に動いていることがわかりました。そして、時期を同じくして、裏の世界での美術品の取引の実態がほぼわからなくなってきたのです。彼らはより巧妙な手段で取引をおこなうようになったのでしょう」 「2018年?」 「2015年、スイスとEUの間で協定が結ばれ、EU諸国の顧客に対する銀行機密が事実上終結しました。そして、2018年から両国居住者の口座情報が自動交換されることになりました。これによって、銀行口座を介した取引がすべて数字として残り、EUでも確認できるようになったのです。そのことから考えるに、アウラ・ノクティスは銀行口座の取引情報に紐づく末端の構成員を排除しているのだと考えられます」 「まさか!」 「・・・残念ながら・・・」  桐嶋の驚きと義憤があふれかえるとともに、キャリーの表情が沈痛に変わっていく。配慮が足りない言い方をしてしまったと後悔していた。  沈黙が流れた。  先に口を開いたのは桐嶋だった。 「おれは、そんな怪しい金のおかげで生きてきたというわけか・・・」 「兄様・・・」  桐嶋は子供の頃の光景を思い出そうとしたが、絵画修復作業をしている父親の背中しか鮮明に思い出せなかった。だが、キャリーの話を前提にして考えてみると不審なことはたくさんあることに気が付いた。  店内にあった絵や額は売れていないのに、金はどこからきていたのか。店に普通の客がくることなんて年に数回あればいい方だ。  記憶の中の父親が修復していた絵は、多くても1年に2枚程度だ。通常の修復報酬額で考えれば、それで1年なんか暮らせない。ものによっては、顔料代で脚が出てもおかしくない。だが、高額な、しかも裏のある絵画の修復費用となれば話は別だ。今回のクリムトの絵の修復代金がそうであったように。 「結局、親子で似たようなことしているのかもしれんな」  自虐するような言い方をした桐嶋だったが、考えを巡らす内に気づいたことがあった。 「親父が亡くなったのは岩手の別荘だ。仮にアウラ・ノクティスに殺されたとすると、あの辺鄙な場所までアウラ・ノクティス関係者がわざわざ親父を殺しに来たということだ。なぜ?東京にいる時に実行した方が楽だしわかりにくいはずなのに。あの場所で殺さなければならない理由があったのか。それとも、あの場所で殺すにたる理由ができたのだろうか」 「お父様が亡くなられてから、その別荘には?」 「最後に訪れたのは2年前だが、その時は軽く掃除をして帰ってきてしまった。1日も滞在していない。その前は5年前だ。親父の遺品かなにかでもあればと思って行ったが、結局あの時も後片付けくらいしかしていない」 「兄様、別荘で確認したいですか?」 「それはな。というか、キャリーの話を聞いたからか、現地で確認しないと気が済まないくらいだ」 「行きましょうか、岩手」  キャリーは楽しそうな表情に変わりつつあった。いや、楽しそうな表情にならないよう注意しているという方が適切かもしれない。  桐嶋は残念がるようにかぶりをふった。 「先ほども説明したように、おれは警察にマークされていてうかつには動けない身分だ。そんな簡単には行けないさ」 「警察だけだったら大丈夫です。行けますよ」  こともなげなキャリーの言葉は桐嶋を驚かせるに充分だった。 「警察が兄様を付け狙っているのは、鷺沼氏に関する唯一の接触者だからでしょう?つまり、殺害の現場での目撃証言やアリバイ等の裏付けもなにもないから、任意の協力者という立場にしかもっていけなかったわけです。だったら、こちらでアリバイと理由を作りましょう」 「・・・話が見えないんだが」 「鷺沼氏が殺害されたと予測している日、兄様はアメリカ大使館で、大使に対して絵画に関するレクチャーをしていたことにしましょう。そして、警察で事情聴取を受けた日から自宅に帰っていない件については、ずっとここにいたことにすればいいのです。ちょうど、私が来日した日と一致しますので。加えて、警察関係者に、アウラ・ノクティスによる殺害の可能性と、それを裏付ける検出成分の一致、つまりさきほど見ていただいた一覧を示せばいいのです」  相手が行動を起こす前に、こちらにとって都合の良い情報を送り付けて上書きしてしまえばいい。キャリーはそう言っているのである。 「キャリー待って。今の話ならば警察は確かにおれに対して動く理由はなくなる。でも、ほとんどウソの話だろ。しかもアリバイを確認する対象がアメリカ大使じゃ話が大きすぎる」 「大丈夫です。現駐日大使は、お父様の古い友人です。というより、お父様が推薦した方です。そのくらいの便宜は図ってくれます。なんなら、お父様に口添えしてもらえば二つ返事でしょう」 桐嶋は開いた口がふさがらなかった。 「このホテルに逗留していたことにする話も問題ありません。先ほど、こちらの部屋に来ていただいたことでおわかりでしょうが、地下駐車場からここまで誰にも会わなかったでしょう?念のため、支配人には話を通しておきましょう。ここは、財団でも常用していますし、私たち一家が来日した際にもよく使うホテルです。私の大事な・・・・・・・・・従兄が同宿しているのでよしなに、とでも言っておけば彼は理解してくれます」  キャリーは途中言いよどんだが、最後は一気にまくしたてた。  桐嶋はキャリーの表情と口調から反対しても無駄なことを悟った。 「・・・わかった。好意に甘えよう。正直、助かることだしな」 「兄様のためなら!」  瞳が輝いているキャリーに、桐嶋は完全に押されていた。 「でも、一つだけ問題が」 「ん?」 「このお話を、日本の警察にどのような形で情報提供しようかと」 「ああ、そうだな。確かにそうだ」  そう言った桐嶋だが、すぐに適切な該当人物を見つけた。 「うん、うってつけのヤツがいる」 「鳴海様ですか?」 「鳴海でもいいが、もっと直接的に、このことをうまく利用してくれそうな人物がいるんだよ」  桐嶋は人の悪そうな笑顔をうかべた。 「キャリー、一人、ここに呼んでもいいか?」 「兄様が信頼してらっしゃる方であればいいですよ」 「おれが日本で最も信頼している人物さ」
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