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第2話
黄金の荊棘(いばら) 第2話
梅雨明け間近の蒸し暑い日々が続いていた。団子坂の古い町並みに、時折吹き抜ける風が僅かな涼を運んでくる。悠彩堂の作業場では、桐嶋悠斗が4日間ほぼ休むことなく、クリムトの肖像画と向き合い続けていた。
作業場の窓から差し込む光が、絵画の金箔部分を照らし、幻想的な雰囲気を醸し出している。桐嶋の姿は、その光景に溶け込むかのようだった。食事や睡眠はある程度とっていたため疲労の色は少ないものの、無精ひげがかなり伸び、洗いざらしの髪はボサボサで眼光だけが鋭く輝いていた。
この絵自体の記憶は桐嶋に存在しない。
しかし「クリムト作 若い女性の肖像画」というキーワードだけで考えれば、来歴に一つ思い当たる節がある。確証はない。ただ、これまでの経験と勘が危険信号を点滅させ始めたことには気づかざるを得なかった。
突然、スマートフォンの着信音が作業場に鳴り響いた。その音は静寂に浸っていた空間を一瞬にして現実世界へと引き戻した。
画面を確認すると登録がなく見覚えのない番号が表示されている。あまり気が進まなかったが、急ぎの要件の可能性もあったため、仕方なく電話に出た。
「もしもし、悠彩堂です」
「桐嶋さんのお電話でよろしかったでしょうか」
「はい、桐嶋です」
「赤坂署の工藤と申します」
警察!?様々な可能性が桐嶋の脳裏を一瞬で駆け巡ったが声からは平静さしか感じないだろう。
「警察の方?いったいどのようなご用件でしょうか。そして、この電話番号をどのようにして知ったのかご説明いただけますか」
「実はある事件の被害者が所持していた携帯の最後の着信番号が桐嶋さん、あなたのものだったのですよ。それでお話を少々伺いたく、ご足労をおかけしますが赤坂署までお越しいただけませんでしょうか」
「任意でしょうか」
「任意ですね」
任意だとしても警察の出頭要請はほぼ強制だということを桐嶋は知っている。素直に従った方がかえって時間がかからないだろうという結論に至った。
「わかりました。いいですよ。送迎はしていただけるのでしょうね。パトカーはダメですよ。近所の目がありますから。一般車両でお願いします」
電話先の工藤という人物が一瞬鼻白んだ雰囲気があった。
「・・・では1時間後にお迎えにあがります。弁護士は同席されますか」
「いえ、私だけで結構です」
「では、1時間後に」
ゆっくりと電話は切られた。
桐嶋は窓際に立ち、外の景色を眺めながら思考を巡らせた。通りを行き交う人々の姿が目に入る。彼らの日常とは違う世界に自分が足を踏み入れようとしていることを実感した。
状況からすれば鷺沼のスマートフォンだろう。被害者の名前も詳細も伏せられているところを見ると死んだか。まさか事故で任意出頭はないだろう。
死亡の可能性を考えても、それほど知った間柄でもないからか桐嶋に動揺は見られない。もし死亡しているとするならば残金はもらえない。仕事してももらえない。でも、興味は大いにあるので万全に修復はしたい。しかし、いかにもヤバい絵が残るだけ。
「割に合わねぇなぁ」
多少なりとも合計1億円を手に入れたらなにに使おうと考えていたため、暗澹たる気持ちになるのは仕方がなかった。
「さて、どうするか」
初手から弁護士同席や黙秘するのは悪手だ。自分から後ろ暗いところがあると声高で叫ぶに等しい。警察がこの時点でわかっていることは鷺沼との電話でのやり取りがあったということだけ。
こういう状況になると、鷺沼のやり方は巧妙だったかもしれないと桐嶋は一人納得した。
数少ない防犯カメラに写っている映像があったとしても、釣り人に近づいて釣れているかどうか挨拶程度の言葉を交わしただけの姿にしか見えない。鷺沼が着ていたジャージと巾着は同色だったため持ち去ったことすらわかりにくいだろう。
第一、あの姿がある意味普通すぎて鷺沼だと特定するのは難しいと思われる。
「やるなぁ」
感心した桐嶋は、今後の警察とおこなうであろう問答を想定した。
警察が確認できるのは鷺沼との関係性だけ。アメリカ在住時の知人から紹介された顧客ということにしておけば不自然ではないはず。
1週間後に来店する予定だったということにでもしておけばいいだろう。
ただ、警察としても手掛かりがあまりなさそうな状況が考えられるので、ゆるやかな誘導尋問くらいはしてくるだろうな。
「やはり保険をかけておくか」
桐嶋はスマホを手に取り、登録先を確認し電話を始めた。
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