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第4話
黄金の荊棘(いばら) 第4話
夏の夜が明け始める頃、東京の空はまだ薄暗かった。
二子玉川の高層マンション群の隠れた地下室。
そこは、都会の喧騒から完全に遮断された静寂の空間だった。
「指紋?」
桐嶋の声が、静かな空気を切り裂いた。
「そうです。例の傷の左下のところに複数。ここです」
倉橋が拡大して印刷した写真の箇所を指さした。
照明の冷たい光が、写真の表面で反射する。
「画像処理して確認したところ、おそらく同一人物による親指の指紋です。しかもこれ、子供ですよ」
言われて自分の指と見比べてみても明らかに小さい。
「桐嶋さんはこの傷をどう見てます?」
「爪でつけた傷だと思っている」
「まったくの同意見です。湾曲具合、幅、奥行、爪で刺した以外に考えにくいような傷ですね。つまり、57個もの傷を親指で保持しながら等間隔に人差し指の爪で刺していった」
桐嶋は倉橋に言われた光景を脳裏にうかべた。
暗い室内で少女(少年?)が無言で一つずつ丁寧に傷をつけていく。
確かに背筋が寒くなる。地下室の冷気が、さらにその感覚を増幅させた。
「しかし、なんのために」
桐嶋の声には、困惑が滲んでいた。
「それはまだわかりませんけどね。なんらかの理由がなければ、さすがにこんなことしないでしょう」
「だよな。しかもだ、この傷は完成した後につけられている。つまり、なにかの理由で絵具が少しでも柔らかくなっていなければこのような傷をつけるのは不可能だ」
一度乾燥した油彩絵具に爪を刺すのは難しい。
通常であれば刺した箇所が割れてしまう。この絵の傷の周囲は割れていない。つまりそれだけ柔らかくなっていたということだ。
「おそらくだが、クリムトの没年や作風から考えて、この絵が描かれたのは1900~1910年あたりだろう。100年くらいで酸化油の分解による柔化は考えにくいし、わざわざ溶剤を使って柔らかくして刺したなんてのも考えにくい。ならばその時は、高温多湿の環境にあったってことなんだろうな」
倉橋はなにかに気づいたように桐嶋に確認した。
「桐嶋さん、オーストリアの夏は涼しかったですか?」
桐嶋はウィーン美術アカデミー在学中のことを思い出し言葉を選んだ。
記憶の中で、ウィーンの街並みが蘇る。
「東京と比較すれば涼しかったよ。湿度も少なかったから体感気温は随分違うがね・・・ああ、そういうことか」
「そうです。クリムトはオーストリアの人。生存している時から評価が高い画家でしたが、作品自体が国外にでたのはずっと後年のことでしょう。ならばこの傷は、どこでいつ誰がつけたものなんでしょうね」
「いやいや、なんか怖いから」
「おれも怖いですよ。この想像してから背後から目線を感じるような気がしてるし」
「おれが言っているのはおまえの顏だよ」
倉橋の顏には恐怖が貼り付いていた。
オカルト的なものは好きだけど、すごく怖がるという典型的なオカルト好きの一パターンが倉橋だった。
「あ、そっちでしたか・・・こういう話をするには時間と場所が悪すぎますね。もう少し絵そのものの考察を進めましょう」
「その方がいいか」
そのまま酒と検討は進んだが、午前4時半くらいに、地下室ではわからない朝日が昇った辺りで急速に収束した。飲み終わった瓶や缶が高さ順にきれいに並べられているのが逆にシュールな光景だった。
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