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1.「湖畔の天使」(2024年7月2日)
明け方の空は、まだ薄青い。まるでホリゾンブルーの絵の具を刷毛で広げたような空だ。
鬱蒼とした森に、山の稜線から朝日が木漏れ日となって差し込む。森の中には小さな池があり、まだ肌を刺す冷えた空気が、その周囲に澱のように沈んでいた。
ひとりの男の天使が、池のほとりで水面に足を入れて羽を休めていた。
天使の頬は赤ん坊のように白くふっくらとしている。また、ターコイズブルーの瞳は大きく、まつげは上に向かってぱっちりと伸びている。天使は、みる者が思わずうっとりとしてしまうような愛らしい顔をしていた。
天使は片翼の風切りの部分の羽が抜け落ちていた。
しばらく、天使が冷たい水に足を浸していると、誰かの荒い息遣いが聞こえてきた。
天使が後ろを振り返ると、木陰から大人の膝丈くらいしかない少女が天使の方を見ている。薄手のコートを羽織り、寒さのせいか、頬を真っ赤に染めている。
綺麗な宝石に見とれているかのような少女のようすを見て、天使はくすりと笑って手招きをした。
「こちらへどうぞ、お嬢さん」
天使の声は鈴が鳴るように高く、澄んだ声だった。少女は目を見開いて、喜んで天使の方へ駆け寄って来た。
「すごい!天使さまね。初めてみたわ」
「喜んでいただけてなにより。僕は飛んでいる途中に鳥にぶつかって、すこし休んでいたのです。お嬢さんは?」
「落ちてる葉っぱとか、木を拾いに来たの。工作して遊ぶのよ」
「それは素敵だ。たくさん拾えるといいですね」
少女は、痛んでいる天使の羽を見て心配そうな顔をする。
「羽、痛くないの?」
「いえ、何枚か抜けてしまっただけなので。休んでいれば…ほら」
天使が羽を震わせると、風切りの部分から新しい羽根が生えてきた。少女が驚いていると、天使は羽を何度かはためかせ、満足げに言った。
「よし、これでもう飛べそうだ。…お嬢さん、それでは」
「もう行っちゃうの?」
少女はもじもじと身をよじりながら、名残惜しそうな顔をしている。まだ、ここにいてほしいと言い出せないでいるのだろう。
天使は目を細めて微笑むと、身をかがめ、少女の額にキスを落とした。思いがけない出来事に、少女はあっけにとられている。少女の顔がリンゴのように紅潮した。
「優しいお嬢さんに幸運がありますように」
そう言うと、天使は翼を羽ばたかせ飛び立っていった。少女は瞳をうるませて、いつまでも天使が飛び去ったほうを見つめていた。
十数年後、少女は画家になった。無名の画家だったが、何度か個展を開催して中流家庭向けに絵を売った。
彼女が描くのは、湖畔にたたずむ天使の絵ばかりだった。あるとき、画廊に絵を見に来ていた客が、彼女に尋ねた。
「どうして、天使の絵ばかり描くんですか?もっと違うものも描けばいいのに」
画家は、頬を赤く染めて、目を潤ませた。彼女の顔は、この世のものならざる美しい彼を眺めた、あのころの少女の顔だった。
「私は小さいころに天使に会ったことがあるんです。…とても綺麗な生き物だった。彼は、私の幸運を祈ってくれました。私は、あのとき彼に一目ぼれしてしまったんですよ」
END
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