0人が本棚に入れています
本棚に追加
2.「夏の星」(2024年7月3日)
「遥人、今日カラオケ行くっしょ?」
「おー、いくいく」
「じゃあ、カラオケ屋で現地集合。19:00な。指導お疲れ~」
「うるせ!」
ダチが、俺にそう言って、教室をあとにした。すでにほかの生徒は帰宅したり部活に行ったりしているのか、教室に残ったのは俺だけだった。
俺はこの間授業をさぼって駅前のゲーセンで遊んでいたのがばれて、放課後に生活指導をくらうはめになっている。
教室の窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。
髪は真っ金きんで、左耳にはこっそりとピアスが開いている。
勉強は大嫌いで、テストの成績は地を這うような点数だ。高校で進級できたのも先生のお情けでできたようなものだった。
それでも、毎日ダチとカラオケやら駅前でショッピングやら、ボーリング、その他もろもろで遊んで過ごしているのは楽しい。
ただ、ときおり心のどこかに穴が開いていて、そこから風が吹きこんでくるような虚しさを覚えることがある。
俺、なにやってんだろ?と言う声が、胸の奥をざわざわと揺らすのだ。
*
生活指導の教師の長い説教が終わり、気付けば18:00を過ぎていた。俺は少し小走りで校門を出て、長い下り坂を下り、高校の近くの駅へと向かった。
駅の近くには、自販機とベンチと花壇のある小さな休憩所がある。俺がその横を通り過ぎようとしたとき、背の高いスーツの男が目に入った。
自販機の前にしゃがみこみ、何度もペットボトルが出てくる開閉口に手を差し込んでいる。
「あれ~、おかしいな」
「なにやってんすか?」
スーツの男は、俺が声をかけたのに気づくと、振り返って表情をゆるませた。細面で、目尻が垂れた柔和な顔をした若い男だ。
「いや、コーラ買ったのに出てこないんだよ」
「新しいの買えばいいんじゃないすか?」
「…実は金欠で。コーラを買うお金も惜しいというか…」
俺は鞄から財布を出すと、コーラの分のお金を自販機に投入した。ボタンを押し、コーラが出てくると男は顔を輝かせた。
「ありがとう!…高校生にコーラをおごられるなんて、情けないな。ははは」
男は、ちょっと待って、というと俺をベンチの側へ連れて行った。ベンチには、黒い鞄と「星の日記」という本が置いてある。男は鞄から包装紙に入ったパウンドケーキを取り出した。
「ほら、これはお礼。いまお金ないからこれでね。今度お金はちゃんと返すよ」
「…どうも」
時計を見ると、カラオケの時間までには少し話をするくらいの余裕がある。俺は、なんとなくこの男の気さくな感じを好ましく思い、話をつづけた。
「スーツ、暑くないんすか?」
「暑いよ~、でも、塾講師だからスーツを着てないといけないんだ。子どもの見本にならなくちゃいけないからね」
「ふうん…」
男はベンチに腰掛け、俺を隣に座らせた。
「俺は、藤野恒星(ふじのこうせい)。こうせいって字は、分かる?自分で輝く星のこと。周りを回ってるのが惑星」
俺はわかったようなわからないような、曖昧な返事をした。
「俺は嶋田遥人(しまだはると)っす。…恒星さんは、星が好きなんですか?」
「うん。そうだ、もう暗くなってくるから星が見えるよ」
顔を上げると、濃紺の夜空にちらちらと星が瞬いている。恒星さんは東の空に輝く4つの星を指で結んだ。
「あれが白鳥座。十字架みたいな形をしてるだろ?クリスマスの時期には、西の地平線に十字架が立つように見えるから「クリスマスの星」とも言われてる」
そこから、恒星さんは線を引くように指を伸ばし、星を結んで大きな三角形を作った。
「白鳥座のおしりのデネブと、ベガ、アルタイルを結んでできるのは夏の大三角形だよ。ベガは真夏の女王と呼ばれるほど明るいから、良く見えるね」
恒星さんは声を弾ませた。俺は目を凝らして、夜空を見上げる。
空を見上げた事なんて、小学校の理科の時間以来のことだった。久しぶりに見る夜空は、散らばる星がぽつぽつと点り、その小さな光が俺の心を凪いだ海のように落ち着かせてくれる。
「星の光って何光年も離れたところから、俺たちの元に届くんだ。すごく不思議だよね」
「そんな風に思ったことなかったっす」
「まあ、普段星を見ないならそんなもんだよ」
恒星さんは続けた。
「俺、いまは塾講師やってるけど、将来は子どもたちに星の楽しさを教える仕事がしたいんだ」
「じゃあ、天文台?とかに就職すればよかったのに」
「大学のころは、星が好きだってだけじゃ、食べていけないと思ってね。でも、27になって、やっぱり好きなことに携わりたいって思ったんだ」
俺は恒星さんの横顔を見た。その瞳は、ベガの光にも負けないくらい、きらきらと輝いている。俺は思わず見とれてしまう。
「恒星って名前だけど、ほんと地味な人生だよ。でもいつか自分の夢を叶えたいんだ」
俺は、そんなことはないと思ったが照れくさくて言葉にはできなかった。
「どう、面白かった?俺の星案内」
「うん」
「ほんとかな?気を使ってない?それならよかったけど…いっけない、電車の時間だ」
恒星さんはそう言うと、鞄を持って立ち上がった。
「あの…また、会えますか?」
俺は恒星さんにつられて立ち上がる。振り向いた恒星さんは
「お金、返さなきゃいけないでしょ?また明日ここで、この時間に」
と言った。
俺は走り去る恒星さんの後ろ姿を見つめていた。
恒星さんを見送り、空に見とれているとスマホが振動した。スマホを見ると何件もダチからメッセージが入っている。
『遥人、早く来いよ』
『遅刻か~?もうやってるからな』
『遥人のシャウト聴けねーと面白くねーよ』
俺は星空を見上げながら、メッセージを送った。
『わり、今日やっぱパス』
そう送ってスマホを閉じる。
また明日、恒星さんに会えると思った俺は、心の奥に空いた穴が、柔らかな綿で埋められたような、満たされた気分になっていた。
今日は、夜空を見上げてから家に帰ろう、と俺はベンチに深く座り直し、暮れてゆく空に瞬く夏の大三角形の光を見つめていた。
END
最初のコメントを投稿しよう!