第一話 遺跡

2/6
前へ
/11ページ
次へ
 パーカーを上に羽織って、そろそろと廊下に出る。  廊下には皓々と電気がついていた。  真冬は小走りになって、自販機に向かう。  硬貨を入れて、ペットボトルのミネラルウォーターを買う。念のために、もう一本買っておいた。  ふと誰かが近づいてきて、真冬は顔を横に向ける。 「こんばんは。眠れませんか?」  英語で話しかけられる。  彫りの深い顔立ち。すらりとした背格好。襟足の長い黒髪。  銀縁めがねがよく似合っている。  どこかで見たな、と思いながら真冬はうなずく。 「こんばんは。……ええと、時差ぼけ、みたいで」  もそもそと真冬も英語で話す。  彼の黒いズボンにベストといった制服で、ようやく真冬は彼が誰か思い至る。  チェックインのときに後方にいたひとだ。ホテルのスタッフだろう。 「辛いですね、時差ぼけ。――ああ、申し遅れました。わたくし、ホテル・ロハの副支配人のマヌエルといいます」 「私は、真冬です」  互いに自己紹介し合う。 「夏美さんの姪御さんなんですよね?」  彼は興味深そうに真冬を見下ろしてくる。 「はい。叔母から聞いたんですか?」 「あなたたちが来る一週間ぐらい前に、『姪たちが泊まるのでよろしく』と言いにこられましたよ」  夏美ちゃんらしい、と思わず笑みがこぼれる。 「チェックインのときも、くれぐれもよろしくと言っていました」  夏美は真冬以外の部員のチェックインを手伝っていた。  真冬はその横でリカルドに手伝ってもらってチェックインを行ったので、夏美がフロントに「よろしく」と言うのを聞き逃したのだろう。 「夏美ちゃんと知り合いなんですか?」  ふと尋ねてみると、マヌエルは微笑んだ。 「たまに顔を合わせますね。夏美さんは、このホテルを気に入ってくれているようで。友だちが来たら、ここの予約を取るように推奨してくれるとか。ありがたい話です。それに、夏美さんはこのあたりでは有名ですよ。日本から来てエスメラルで考古学者になるなんて女性、なかなかいませんから」 「そうなんですか」  真冬は周囲を意識した。  もちろん今は夜中だからひとを見かけないのだろうが……どうも宿泊客が少ない気がする。  そういえば、真冬も夏美に勧められるがままに旅行社にこのホテルへの希望を出したのだった。  エスメラルの遺跡に近い、という立地がありながら、どうして空いているのだろう。  真冬の疑問を見透かしたのか、マヌエルは物憂げな表情になった。 「ここは、あんまり交通の便がよくないんですよ。それでも昔は賑わっていましたが。空港に近いところに大手チェーンのホテルができてしまって、なかなか。夏美さんはエスメラルに来てすぐここに滞在して遺跡見物をしていましたから、愛着を持ってくれているのでしょうね」 「……なるほど」  空港に近いホテルに泊まって現地ツアーに出かけるほうが楽だろう。  エスメラルには、このホテルに近い遺跡――【月の集落】の他にも遺跡がたくさんある。  くわえて、【月の集落】はどちらかというと小規模な遺跡だ。  観光客の流れは、残念ながら自然なものに思えた。 「あ、じゃあ、私、部屋に戻ります」 「お部屋の前まで送りますよ」  マヌエルの申し出を断るわけにもいかず、真冬はマヌエルと並んで歩く。  部屋の前に着くと、彼は恭しく頭を下げた。 「当ホテルでのご滞在をお楽しみください」 「はい……ありがとうございます」  感謝の言葉を紡ぐと、彼は去っていった。  真冬はなかなか眠れない夜を過ごした。  ようやく眠りに入れたと思ったら、スマホのアラームが鳴る。  飛び起きてスマホの画面を確認すると、午前七時だった。  郁からのラインメッセージが届いている。 『無事に着いた?』  こちらを案じるメッセージに返信する気になれなくて、真冬はスマホから目をそらす。 「朝ごはん……」  つぶやいた瞬間、待っていたかのように腹が鳴いた。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加