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幼い頃、空を泳ぐ魚を見た。
都会の中で一匹だけいたそれは、オレ以外の誰の目にも留まっていない。
とてもしなやかで、優雅で、そして、綺麗だった。
時が経つにつれて、それは幻だったと落ち着いた。誰かに話したところで、信じてはもらえなかったからだ。
それでも、あのときの感動を、オレは覚えている。
それが、不思議なものに興味を持つようになった、きっかけだ。
◇◆◇
高校に入学してから、バイトを始めた。
金が欲しくてやっているわけではないし、社会勉強になると思って、というわけでもない。オレが求めるのは「不思議」だ。古今東西、あらゆる不思議。きさらぎ駅などの都市伝説の類や、トイレの花子さんなどの怪談、なんでもありだ。そこに不思議があるのなら、どこにだって行ってやる。不思議に見て、触れて、感じたいんだ。
そのためには、このカフェ・ド・カルピンチョでアルバイトをするのが、一番効率的だと考えた。
「ハルト君、そこのお皿を取ってくれますか」
現実世界とは違う空間「異世界」に位置するカフェ。木材でできたカウンターと椅子、クリーム色の壁はいつ見ても落ち着いた雰囲気を醸している。穏やかなジャズの音楽が流れ、コーヒーのいい香りが漂う。客もマスターの淹れたコーヒーを飲んで、まったりしている。この空間そのものが癒しになる。そうしてほっとした合間に、世間話をして、知らない間に情報が集まるのだという。オレはそのオコボレを頂戴しようというわけだ。我ながら名案だ。
「はーい」
少し離れた棚にあるお皿を持っていくと、水かきのついた小さな手で、それを掴んだ。
マスターは、カピバラだ。現実世界のカピバラがベストを着て、お洒落なドットの蝶ネクタイをつけ、そしてコーヒーを淹れている。それも人の言葉を喋る。いや、面接当初、「わたしの言葉を無意識に訳しているんですよ」とか言われたっけ。
一方で、客も様々な動物がやってくる。二足歩行のアライグマや帽子を被ったリス、さらには、猟銃を背中に携えた狼が来たときには二重の意味で困惑した。とにかくいろんな層の客が来るから、毎日が退屈しない。
「バイト君、会計もお願いしてもいいかしら」
「はい、今行きます」
もう一人、いや、一匹と呼ぶべきか。二足歩行の美しい猫が、こちらを向いて言った。このカフェの従業員の、ラグ姉だ。美しい白い毛並みに、宝石のような澄んだ碧の瞳。純粋に、美しいと思える猫だ。気品に満ちた彼女は、マドンナと呼ばれているらしい。マスター曰く、彼女を目当てにやってくる客も少なくないらしい。
会計を終えると、最後の客は微笑みながら去っていった。
「ひと段落つきましたね。ハルト君、もう上がっていいですよ」
「えっ、まだ不思議を収穫できていません」
店はまだですよねと言っても、マスターはカウンター越しに、首を横に振る。
「君のいう不思議は、毎日来るわけではありません。非日常的だから不思議と感じるんですよ。現に、二足歩行の動物たちが来ても、驚かなくなったじゃないですか」
「そりゃそうですけど」
「ハルト君にとって、それが日常になったということです」
「それじゃあ、ここで働いている意味がないじゃないですか」
落胆もする。がっくりと肩を落とすと、自然と深いため息が出た。
「貴方も物好きね。そんなに不思議が好きなら、自分から向かえばいいじゃない」
ラグはお釣りを数えながら言う。
それこそ、無理難題というものだ。現実世界、不思議なものに遭遇したのは幼少期のときだけだ。あれ以来、遭遇したことはない。自分から向かったところで、人の顔に見える木の幹であったり、不気味な音の正体は隙間風だったりと、追求すればするほど、期待すればするほど、落胆することばかりだった。
「自分から向かったところで、大体の不思議は解明されてしまうんです。しいていえば、そうですね。オレが小さいときに見た、スカイフィッシュはまだ解明されていない不思議ですけどね」
空を泳ぐ魚。誰も見向きもしなかった、オレだけが知っている、都会を泳ぐ魚――。
「スカイフィッシュを見た? それは本当ですか、ハルト君」
「幼少期なので、だいぶ前ですけど。知ってるんですか?」
思い出に浸っていると、マスターは手を止めてオレと視線を合わせた。曰く、なかなか遭遇することのない珍しいものらしく、見ることができただけでも幸運だという。
「この世界にもいるのよ。空を泳ぐ魚はこっちでも、少し珍しいわよ」
お釣りを数え終わったらしいラグ姉は、オレたちの近くまで来て、椅子に座った。
「ど、どういう形ですか。ネットで見たんですけど、やっぱり、トンボみたいな羽がいっぱい生えてたりとか、大きな口にギザギザの歯が並んでいたりとか」
「いえ、とても綺麗な魚よ。全身がキラキラと輝いて、周りの色を反射させるの」
「や、やっぱりそれ、オレが昔見たやつかも!」
こんな偶然があっていいものか。昔に見た憧れを追求することができる。それだけで胸がドキドキする。これだ、この高揚感。不思議なものを自分の目で見て、自分の手で触れて、感じられる。そんな機会があるのなら、どこにだって行ってやる。
「なら、会いに行ってみますか。実は、先ほどのお客様がスカイフィッシュの群れを山奥で見た、というのですよ。これは偶然でしょうか。ハルト君にとっては、チャンスかもしれませんね」
「いいんですか、いいんですね! ひゃっほう!」
「ええ。むしろ、ちょうどよかったです。ラグ、一緒について行ってもらえますか」
「お守り? 仕方ないわね」
やれやれ、と言った顔をして、ラグ姉はちらっとオレを見た。ラグ姉が付いてきてくれるなら、異世界で迷う心配もないだろう。それにしても、幼少期に見た憧れに手が届くときがこようとは。少し急な気もするし、こうもあっさり会いに行けるとなると、複雑な心境にもなる。
――否。これはきっと不思議の神の思し召しだ。会いに行けと言っている。そんなカミサマ、聞いたことないけど。いやいや、この際そんなことはどうだっていい。こんな機会をみすみす逃すはずがない!
「行きます! 今からですか!」
興奮冷めやまぬ気持ちをマスターにぶつけた。
「明日はガッコウでしょう? 日を改めて行くとしましょう」
マスターは机を拭きながら、冷静に言った。
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