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 土曜日の朝、人気のない公園へと向かう。ここが、カフェ・ド・カルピンチョの入り口だ。  厳密には、どこでもいい。持っているドアノブを地面に差して、捻るだけだ。オレも最初は半信半疑だった。いや、ツッコミたい箇所が多くてついていけなかった。  不思議な店の、不思議なマスターから手渡されたドアノブ。曰く、鍵の代わりだそうだ。鍵の代わりにしても、もっとマシなアイテムがほしかった。光り輝く魔石だとか、水晶とか、そういう中二心をくすぐるアイテムでもよかったのではないだろうか。なぜドアノブなのか。鍵の代わりだとはいえ、「こちらのほうが、掴みやすいでしょう」とマスターが言っていたとはいえ。いや、不毛な詮索はやめよう。  このドアノブは変わった形をしている。  オレが今、地面に差した部分はカピバラの手形になっている。その部分を地面にねじ込み、丸くなった取っ手を持ちながら捻る。地面が不自然に割れ、カフェの裏口につながる扉が出現する。その中に入れば、重力が九十度回転し、あっという間に異世界にたどり着くわけだ。いつ来ても、この感覚だけは緊張する。いや、ワクワクしているといったほうが正しいのかもしれない。  カフェ・ド・カルピンチョの地下は、いつも薄暗い。廊下の真ん中にひとつ明かりが灯っているが、柔らかいオレンジ色の光は全体を照らしてはくれない。  廊下の突き当たりからまっすぐ向かって階段を上ると、そこには開店の準備をするマスターが立っていた。台の上に乗りながら、器用にお皿を拭いている。 「お待ちしてました、ハルト君。さて、ラグがお待ちかねですよ」  マスターは、顔色一つ変えずに言った。  土曜日の八時に来てください、というのだから十分前にはここにきたというのに、ラグ姉はずっと前に店の準備を整えて、出かける支度まで済んでいる。やはり、仕事が早い。 「おはよう、バイト君。……あら、その荷物は、何かしら」  ラグ姉は、オレが背負ったリュックサックを指しながら言った。水を二リットルほどと非常時の食料、テント、寝袋、ロープ、懐中電灯。ライターや燃やす新聞紙だって必要だろう。どんな山かはある程度聞いたが、ないよりはマシかと思ってピッケルも用意した。 「山に登るのですから、大荷物ではかえって手間です。少し身軽になるといいですよ」  さあさあ下ろして、とマスターが言う。店の端のソファに置くと、マスターとラグが近づいてきて、要らないものを次々と選別していく。 「おおよそ、これくらいでしょう」  まず、テントがなくなった。  寝袋も。  いや、かなり重要なものを要らないと言われて焦らないわけがない。マスターたちが要らなくても、オレはいると思うよ! 「いや、これだとオレ、きっと眠れないと思うんだけど」  さりげなく反抗を試みたが、マスターは相変わらずほのぼのした平和そうな柔和な笑みを浮かべて言う。「大丈夫ですよ」と。 「近くの集落にお邪魔したらいいんです。あっ、せっかくでしたら水の代わりに、こちらをどうぞ」  ――集落?  なんだ、集落があるのか。それを先に言ってほしかった。泊まるところがあるのなら、きっと大丈夫なのだろう。そして言われるがまま液体の入った瓶を持たされる。どうやら、マスター特製の酒だという。集落に泊めてもらうときに、差し出せとのことだった。 「瓶のほうが重いと思うんですけど」 「手土産はあったほうがいいですよ」 「だからって重たいものじゃなくてよくないですか……」 「大きな陶器に入ったパイでもいいんですが」 「酒瓶、喜んで持っていきます」 「ほら、もう出かけないと日が暮れてしまうわ」  ラグ姉が急かしてくる。荷物を減らしたのに少しばかり重みを感じるリュックを背負い直し、カフェを出る。  現実世界と同じくらい、快晴だった。暖かな日差しにコーヒーのいい香り。いかにも穏やかな一日の始まりのように思えた。  目の前に、大きな熊がいなければ。  ああ、熊だ。目の前に熊がいる。四足歩行のいかにも川で鮭を狩ってそうな熊がいる。ツキノワグマだろうか。いや、ヒグマかもしれない。なかなか面白い、人は熊と遭遇して諦めたついた瞬間、よくこんなに思うことができるな。店に戻って鍵をかけるとか、思いつくだけで体が追いつかない。きっと、きっとここで襲われる――。 「やあ、いつもご利用ありがとうございます」  喋った。そういや意思疎通ができるんだった。  遅れて店から出てきたマスターとラグ姉が、仲良く熊と話している。どうやらこの熊はこの世界のタクシーらしく、時々客を送迎するときに活躍しているらしい。早く言ってほしい。心臓が止まったかと思った。 「旦那の頼みとあらば、山の麓までなんぞお安い御用です」 「いつも助かります。では、ハルト君とラグを頼みますよ」 「へい!」  元気いっぱいの低い声を轟かせる。害がないと分かっていても、なんだか怖いなあ。
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