血が滲むほどの

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血が滲むほどの

 ネタ帳にじわっと血が滲む。  ああ、またやっちまった。  俺はページで切れた人差し指の血を見て、気だるげに思った。指先を口の中に入れて血を吸う。むせかえりそうな苦みが口内に広がった。思ったより深く指を切ってしまったらしい。血が止まらない。ええ、面倒くさいな。俺はくたびれた背広からくしゃくしゃになったポケットティッシュを取り出して、指先をぐるぐる巻きにした。今度はティッシュに血が滲む。  あまりにも不格好な応急処置をしていると、ききーっと屋上のドアが開く錆びた金属の音がする。俺の背中に迫ってくるのは、革靴が奏でるかつかつ、という軽快な足音。俺は振り向く。やってきたのは皺一つないスーツに身を包んだ同僚、飯田だった。 「おう、正木。またここにいたのか。こんな寂れた屋上に居座るのはお前くらいだよ」 「お疲れさん、飯田。昼はもう食った?」 「ああ。お前は?」 「これから」  俺はコンビニの袋から完全栄養食、ゼリー飲料を取り出す。ほんの少し力を入れてキャップを開け、中身を吸い込んだ。血の苦みがゼリーの透明感で上書きされていく。俺はゼリー飲料を口にくわえたまま、ネタ帳をパラパラと捲った。さて、今度の公募はどんな話にしようか。ああ、これとか良さそうだ。食事と同時に思考し始めた俺の様子を見た飯田は、ため息をつきながら小言を言ってくる。 「お前な……それは飯とは言わん。そんなだからいつまで経っても体重が増えないんだ」 「咀嚼が面倒くさい。というか無駄」 「最早生命活動の放棄だろ。その両手が持つべきは、メモ帳じゃなくて箸と弁当だ」 「一日一食は食ってるから大丈夫だ」 「少ないわ。もう若くないんだぞ、趣味にご執心なのはいいけど、ほどほどにしろよ」  飯田は言いながら、俺に絆創膏を差し出す。だが、飯田の趣味という言葉に俺はむっと来て、飯田から目を背けながらそれを無視した。飯田が趣味と言っているのは、俺が小説を書いて公募に出していることだ。これは、趣味なんかじゃない。 「……趣味じゃない」 「趣味じゃなけりゃ何なんだ。体に無理のない範囲で、楽しくやれば良いだろ。仕事のミスにも繋がるんだから。ほら」  飯田は携帯の画面で時計を確認しながら、俺に絆創膏を押しつけてくる。俺は納得いかないながらも、渋々絆創膏を受け取った。その拍子に、飯田の携帯が視界に入る。その待ち受けには、弾けんばかりの笑顔をした子どもが映っていた。飯田の子どもだ。 「……子ども、元気にしてるか」 「ああ。あっという間に小学生になっちまったよ。時間ってのは、こうやってあっという間に過ぎ去っていくんだなあ」  飯田は待ち受けを嬉しそうに、そしてどこか寂しそうに眺める。子どもの成長する早さに驚いているんだろう。これだけの速さで成長していたら、独り立ちなんてすぐだ。 「……そうだな」  俺は絆創膏を指に貼りながら、飯田の言葉に今度は素直に頷く。本当に、時間ってのはすぐに過ぎていく。いつか書籍化したい。そんな夢を抱いて、もう何年経ったか。気づけば、俺は独り身のままアラフォーになった。後悔はないが、温かい家庭を持つ飯田を見て何も思わないと言えば、嘘になる。  少ししみったれた空気になったところで、飯田がすっと立ち上がった。 「さて、俺はそろそろ戻るわ。正木も、ほどほどにしろよ」 「……ああ」  俺は飯田の背中を見送る。屋上に取り残されたのは俺一人。……さて、やるか。俺はカフェインの錠剤をゼリー飲料で飲み込み、ネタ帳に簡単なプロットを書き始めた。 「正木、最近ミス多いぞ」 「……すいません」  公募の締め切りが差し迫ってきたある日、俺は上司に叱られていた。カフェインで変に覚醒した頭を下げ、俺は謝罪する。上司に叱られている間も、俺の頭の中は小説のことで一杯だった。今回の公募、良いネタが浮かばない。締め切りまで三ヶ月をきっているのに、これはまずい。俺が上の空なのが分かったのだろう、上司は貧乏揺すりで苛つきを表現しながら、俺を視線で刺す。 「そもそも自己管理ができていないだろう。その隈、ろくに寝ていないんじゃないのか? 一体家で何してるんだ、お前は」 「はあ……その、少し趣味を……」    小説を書いている、とは何故か言えなかった。あれほど嫌だった趣味という言葉を使わざるを得ない自分が情けない。  一方、趣味と聞いた上司はあからさまに機嫌が悪くなった。 「趣味? それでこっちに迷惑かけられたらたまったもんじゃないぞ!」 「……はい」  駄目だ、頭が上手く回らない。まともな謝罪も小説のネタも出てこない頭なんぞ、ただの飾りだ。ハロウィンのカボチャの方がまだ仕事をしているんじゃないか。あ、何か今の表現いいな。覚えておこう。 「もういい、戻れ」 「……すいません」  怒りを超えて呆れかえった上司にようやく解放され、俺はデスクに戻る。とにかく、定時まで目を覚まさないと。俺はカフェインの錠剤を口に放り込み――。 「正木、いい加減にしろ」 「……飯田」  放り、込めなかった。錠剤を握った手は、後ろにやってきていた飯田に掴まれる。飯田の強い力に、ひょろひょろの腕は勝てそうになかった。  飯田も俺に対して苛ついているのか、妙に刺々しい。椅子を近くの空いているデスクから引っ張ってきて、飯田は俺の隣に座る。 「本当にデカいミスするぞ。近々、大事な会議あるだろ。それだけじゃない、もう体だってボロボロだ」 「……まだいけるさ」 「いけねえよ」  俺の言葉を、飯田は真正面から否定した。俺がはっとなって飯田の顔を見ると、彼は急に優しい、諭すような声色になる。 「正木、よく考えろ。俺たち、もうアラフォーだぞ。来年にはもう四十歳だ。体に鞭打って夢見る年齢じゃないんだよ」 「…………」 「夢の中じゃ生きていけない。俺たちには、乗り越えるべき毎日があるだろ? それだけで十分偉いじゃないか」  俺は、飯田に言い返せない。飯田の言っていることは全部正論で、事実だ。生きているだけで偉い。よく言ったものだ。俺はそこにプラスアルファで、夢を詰め込んで生きている。だが、年齢というものがある。体力というものがある。限りある時間というものがある。どの器ももう限界に近いということなど、俺自身がよく分かっていた。  反論せずに下を向く俺を見て、納得したと思ったのだろう。飯田は優しく俺の肩を叩き、自分へのデスクへと帰って行った。 「……クソ」  俺はくたくたの背広から小さなネタ帳を取り出す。ページには、この前切った人差し指の血が滲んでいた。血が紙に染みていくように、飯田の言葉が頭に染みてくる。自分の中に密かにある諦観が、頭に染みてくる。  ネタ帳を捲る。忙しい日々の合間を縫って書きためた、大切なネタ帳だ。最早、どのネタが面白くて、どのネタがつまらないのかも分からなくなってしまった。自分と周囲を納得させられない、力不足な俺に苛ついてくる。こんな形で負けたくない。俺は飯田に見られないよう、こっそりカフェインの錠剤を腹に流し込んだ。  そこからしばらくの期間、俺はやけになったように小説にのめり込んだ。飯田が言ったように、大事な会議も控えていたからその準備にも追われた。睡眠なんて前以上にほとんどとっていない。買いためておいたカフェインの錠剤はみるみるうちになくなっていった。上司も飯田も、もう俺に何も言わなくなっていた。とにかく、会議を乗り切ればあとは小説に集中できる。何とかして、公募を進めつつ会議に決着をつけなければ。  むきになっていた俺は、カフェインの錠剤が切れてしまったことに気づけなかった。それに気づいたのは会議の前日深夜、意識がなくなる直前だった。 「……はっ!」  俺は狭いワンルームの床で目が覚める。今何時だ?  慌てて携帯を見る。時刻は昼の十一時。会議なんてとうに始まっている。  ヤバい。ヤバいヤバいヤバい!  俺はカフェイン抜きで目覚めた頭を抱え、すぐに上司に電話した。とにかく、謝罪だけでもしなければ。  ぷるるるるる、ぷるるるるる……。  電話には出てもらえなかった。代わりに、上司からただ一言、こう送られてくる。 『もう今日は来なくていい』 「終わった……」  俺は床にへたり込み、思わず呟いた。何もかもが無駄になってしまった。上司や飯田が恐れていた、大きなミスがついに起こってしまった。いや、俺が一番に恐れるべきことだったんだ。俺は、優先順位を間違えた。  俺は放心状態で、机の上のパソコンを見る。昨日まで公募に出す小説を書いていたパソコンだ。  飯田の言葉が蘇る。 『夢の中じゃ生きていけない。俺たちには、乗り越えるべき毎日があるだろ? それだけで十分偉いじゃないか』 「お前が言っていたこと、ようやく分かったよ、飯田……」  俺はパソコンの前に座る。充電がなくなっていたから、コンセントにパソコンを繋いで無理矢理起動させた。画面上に、俺が昨日まで書いていた原稿が広がる。くたびれた生活を送る男の生涯を描いた作品だ。原稿は八割方出来上がっていた。そして幸か不幸か、今日は金曜日。土日は予定がない。  今回のことで決めた。  あと一回。この一回で終わりにしよう。  俺はいろんなものが滲んだ涙を拭いながら、三日かけて原稿を完成させた。これが俺の人生最後の作品だ。文字通り、体と生活を削って書いた小説だ。これで駄目ならもう駄目だろう。俺は原稿用紙を入れた封筒を、ゆっくりとポストに託した。     公募に最後の小説を出してから、俺は睡眠を取るようになった。食事をするようになった。仕事が少しずつ、上手く回るようになった。失った信頼も、一ヶ月ほどミスなく仕事をこなすと戻ってくるのが分かった。飯田も、俺を見てよく笑うようになった。 「いやあ本当、お前が会議来なかったって聞いたときはどうなることかと思ったよ! 最近は上手くやっているみたいだし、このまま頑張れば何とかなるだろ」 「心配かけて悪かったな、飯田……」 「いいって。もう小説は書いてないのか?」  飯田に聞かれ、俺は飯を噛みしめながらへらりと笑った。それは飯田、お前が一番よく分かってるんじゃないのか。 「もう止めたよ。睡眠不足はもう懲り懲りだ」 「ははっ、違いない」  飯田は嬉しそうに、にかっと笑った。  数ヶ月後、公募の結果発表があった。  俺はパソコンを開き、結果を確認した。一文字一文字刻みつけるように、そっと画面をスクロールしていく。公募の受賞者に、俺の名前は、俺の小説はなかった。 「ま……だろうな」  俺はどこか清々しい気持ちで、パソコンを閉じようとする。しようとして、もう一つの用事を思い出した。ああ、結果が分かったなら、大量の黒歴史を削除しないと。もう書くことはないんだから。俺はパソコンに残っていた小説のデータを削除し始める。何年も前の古いデータも残っていて、何だか恥ずかしい。 「ははっ、俺は何年も、一体何やってたんだろうな」  最早おかしくて笑えてくる。何をそんなにむきになっていたんだろう。何をそんなに、一生懸命になっていたんだろう。どれもこれも、思いついたときには傑作だと思っていたのに、あっという間に駄作になっていった。社会的に見ても、俺の小説は駄作ばかりだったみたいだ。 「データは……これで全部か。……あとは」  俺は部屋の押し入れを見る。そこには、アナログで小説を書いていた、学生時代の作品が全て残されていた。俺は大量の紙束を、ゴミ袋に放り込んでいく。思い出整理をしていると途中で手が止まるのはよくあることで、俺は学生時代を懐かしみながら、それらを捨てていった。 「あはは、汚え字」 「何だこれ、全然面白くないし」 「無茶苦茶じゃねえか、俺」  本当に無茶苦茶だった。この頃は、執筆のしの字も分かっていなかった。できることなら、こんな無駄なことに時間をかけていないで勉強しろって、過去の俺に言ってやりたい。そしたらもっとまともな、飯田みたいな大人になれていただろう。  そうやって原稿用紙を捨てまくっていると、一つだけ色の違う、桜色の紙が混ざっていた。これは……半分に折られた画用紙だ。 「これ……」  俺は、おもむろにその画用紙を手に取る。まだ子どもの字で、「五年二組 正木秀也」と書かれていた。その文字を、いつぞや切った人差し指で撫でる。間違いない、これは、俺が生まれて初めて書いた小説だ。  画用紙を開く。色褪せた原稿用紙が目の前に広がる。色鮮やかに、あの頃が蘇る。  元々、俺は本が好きな子どもだった。多分それは、親の教育方針の賜物だった。  休憩時間は運動場に出ないで、いち早く図書館に行く。ちょっとクラスの男子達から浮いた小学生だった。そんな休憩時間の過ごし方をしていたものだから、俺には友達と言える友達がいなかった。少し寂しかったが、それ以上に「何でみんな本を読まないんだろう」って不思議だったのを覚えている。  五年生のある国語の時間だった。写真を見て、その写真から物語を考えてみましょう。そういった課題が出されたんだったか。俺は桜の写真を見て、ある物語を思いついた。  それはこの小説を書いた自分と同じ、男子小学生が主人公の物語だった。怪物から自分たちの学校を守る使命を、学校の桜の木から託される物語。確か、ちょうどそのとき読んでいたファンタジー小説に影響されたんだ。  同級生達が今までにない作文に頭を悩ませて手を止める中、俺の鉛筆は誰よりも軽快に、誰よりも重みを持って原稿用紙の上を走っていた。そして、誰よりも時間をかけて、誰よりも長い小説を作り上げた。  出来上がった物語は、桜色の画用紙に閉じられた。物語に登場させた、桜の木にちなんだ色を表紙に選んだ。もう随分昔のことだ。そのときはまだ男子っぽい色、女子っぽい色というのが存在していて、明らかに女子っぽい色を表紙に選んだ俺を、クラスの男子達は変な顔で見ていたっけ。  でも、その変な顔が変わるときがあった。アイツらが、俺の書いた物語を読んだときだ。訝しげな目がぱっと開かれ、本と呼ぶにはお粗末な紙に惹きつけられ、丁寧に原稿用紙が捲られていく。そして、読み終わった紙がまた、最初から開かれる。俺は、読者が物語にのめり込む、その一部始終に釘付けになった。心奪われた。何より、嬉しかった。  これが、俺の創作活動の原点だった。だったが。 「……面白くない」  所詮小学生の書いた物語だ。自分が読んだことのある小説から設定をほとんど持ってきていて、表現も流用ばっか。オリジナリティなんかどこにもない。驚くほどに、面白くない。 「本当に……面白くねえなあ」  なのに、色褪せた原稿用紙を捲ることを止められない。一文字一文字、大切に読むことを止められない。俺は鉛筆で書かれた文字を優しくなぞる。自分の始まりみたいなものだから、他の小説より愛着が沸くんだろうか。そう思いながら捲った、最後のページだった。 「…………あっ!」  俺は目を見開く。予想外のオチがついていたわけでもない。そのページだけ、世の文豪達が大絶賛する出来だったわけでもない。  赤黒い斑点がぽつぽつ、インクのように滲んでいた。  思い出した。  俺はこの小説を書いていたとき、集中しすぎて鼻血を出したんだ。 「……ははっ、ははははははっ!」  鼻血の跡を見て、俺は笑うのを止められなかった。  そうだ、俺はこのとき、鼻血を出すほどに没頭していた。物語を紡ぐという生まれて初めての行為に、どうしようもなく心躍り、全力で臨んでいた。  それなのに何だ、今のこの体たらく!    俺はパソコンをがっと掴み、電源ボタンを押す。ぶーん、という起動音がなる。数ヶ月、睡眠も栄養もしっかり取った頭はさび付いた音を立てながらも、少しずつ小説馬鹿へと戻り始めていた。あれほど痛い目も見たのに、わくわくが止まらない。今はとにかく、小説が書きたくてたまらないんだ。  忘れていた。小説を書くのは楽しいことなんだって。小説を読んでもらえるのは嬉しいことなんだって。いつの間にかその楽しさも嬉しさも忘れて、苦しんでばかりだった気がする。  ありがとう、小学生の俺。おかげで、大切なことを思い出したよ。  心の中で、過去の自分に礼を言う。答えは返ってこない。どうせ、思い出の中でも鼻血を出すほど、物語を書くのに没頭しているんだろ。  俺も負けていられない。あと一回じゃない。もう一回だ。  だって俺は、まだ鼻血が出るほど書いちゃいない。    血が滲むほどの 完
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