12人が本棚に入れています
本棚に追加
動揺と決心 *ヴィクター
「アレン、あの女性は……」
「は?」
馬車に乗り、こちらに向かって小さく手を振る女性を見る。その周囲には家令や侍女長をはじめ、使用人たちが彼女を守るように立っている。
……彼らは挨拶以外には私に一言も声をかけなかった。いつものことなのに改めて認識する。
彼女よりかなり背の高いアレンと顔を合わせて話をしているところを見て、初めて彼女の顔をちゃんと見たような気がする。私と会う時はいつも俯きがちで表情も乏しかった。
そして「サフィーア」と言う名前も思い出した。
アレンが馬車の扉を閉める前にもう一度「行ってくるね! サフィーア!」と大きく手を振った。すると、彼女はふんわりと微笑んで先ほどより少し大きく手を振った。
その姿は美しく、清らかで品格というものが感じられた。
車輪ががらがらと石畳の上で音を立て、門を出る。角を曲がり屋敷が見えなくなった頃、アレンがぽつりと言った。
「……もう解放してあげてくださいよ。それができないなら、とっとと僕に家督を譲ってください」
「え?」
「あなた方は別邸で幸せに暮らしているんでしょう? なんでサフィーアは幸せになれないんですか。なっちゃいけないんですか。
僕ももう大きくなりました。サフィーアは役目を全うしたでしょう?」
「お……お前は『母上』と呼んでいたんじゃ?」
「母ではないですからね。サフィーアの個人を尊重しているんです」
「いつから……」
「名前を呼ぶようになったのは最近ですが、実の母ではないのではと疑っていたのは物心がついた頃からです。だって僕とサフィーア、全然似てないじゃないですか。それに、学院に通うようになってから色々とね」
「色々……?」
「『君の父上はお気楽だって私の祖父が言っていたよ』『君の両親はいつ離縁するの? 叔父が君の母上を救いたいって言っている』『美しい義母と暮らす気分ってどうだい?』などなど、ね」
私は絶句した。
社交の場でも事業の場でも、私に向かってそんな不躾なことを言われたことはない。アレンが平民のジュリアの子であることで侮られているのだろうか。
「か、彼女がなにか言っていたのか?」
アレンが汚いものを見るような視線を私に向けた。
「サフィーアはなにも言わない。粛々とやるべきことをやり、僕に愛情を注いでくれました。本邸の使用人に聞けばいいですよ。
というより、サフィーア自身の方が酷いことを言われていたと思いますよ。例えばあなたと出席した夜会。最初エスコートして入場したら退場するまでほったらかしだったんでしょ。……ああ、それから」
アレンがなにかを思い出したように少し上を見た後、私に視線をよこした。冷ややかな氷のような水色の視線を。
「あなたの愛人、僕が帰省する時の馬車を待ち伏せするのをやめるように言い含めてもらえませんか。気持ち悪くて仕方がないです。なんですか、僕が帰省する予定をあなたが愛人に教えているんですか?」
「なっ……! お前の母親なんだぞ!」
「生物学上のね。それは認めましょう。ですが僕を慈しみ育てたのはサフィーアです」
アレンがうっとりするように目を細めて「サフィーア」と「妻」の名を呼ぶ。
「お前……、まさか彼女のことを? 十七も年上だぞ」
「自分たちが下衆だからって僕まで仲間に入れないでもらえますか」
アレンがふん、と目を閉じる。私はぐっと口をつぐんだ。
「……物心がついてサフィーアと血が繋がってないと知って……、たぶん初恋と言えるものでしょう。ですが、僕ではサフィーアを幸せにはできない。僕が彼女にしてあげられることは、僕が一人前になって侯爵家から解放してあげることだけです」
アレンは膝の上で組んだ手をじっと見ながら、ジュリアに似た顔を苦痛に歪ませる。けれどその苦悶の表情は美しく、「妻」に似た品格を思わせた。
「僕をサフィーアに託してくれたことは心から感謝します。彼女に育ててもらえなければ僕は救いようのない人間になっていたことでしょうからね」
あなたたちのように、とアレンの唇が動く。
*
領地の視察と、主だった有力者とアレンの顔合わせを終わらせて王都にある別邸へ戻る。
あれから今まで、地獄のような沈黙が私たち親子を覆っていた。外面は取り繕っていたが、アレンは私に一瞥もくれず私との間に明確な線を引いていた。
「おかえりなさい! ヴィクター!」
ジュリアが玄関にかけてきた。
「ああ」
「アレンとなにを話したの? ねえ、あたしと会いたいとか言ってなかった? ああ、領地に泊まりがけだなんて。あたしも行けばよかった!」
ジュリアが興奮気味にまくしたてる。それは私の沈んだ気分を逆撫でした。出会った頃は回りくどい話し方でなにを考えているかわからない貴族社会と違って、素直に感情を表すジュリアが可愛らしく思えたのだが。
「馬車の中のアレンと目が合ったことがあるの。あたしとそっくりだったわ。どうしてこの家に連れてきてくれなかったの? アレンが大人になったら会わせてくれるって……」
「アレンは、会わないと言っている」
「え?」
私は、私たちは「妻」とアレンを捨てた。
だから、今度は私たちが「妻」とアレンに捨てられた。
ジュリアはアレンを産んだ後、産後の肥立が悪いというよりは情緒不安定になり、毎日「育てられない」「死にたい」と泣いていた。
ジュリアが嫌がるから「妻」との間に子を作らないと決めたし、ジュリアが泣くからアレンを「妻」に託した。
それにアレンを後継として育てるには「妻」に育ててもらう方が都合が良いと考えたのもあった。
するとジュリアが今度は「アレンを返せ」と泣きはじめた。用事があって本邸に戻るたびに「なぜアレンを連れ戻さないの」と喚くので私は途方に暮れた。
私が本邸に帰るたびにジュリアが不安定になるので、だんだんと本邸から足が遠のき「妻」とは業務連絡という手紙のやり取りだけとなった。
時折、仕事の連絡でやってくる家令に本邸の様子を聞くと「奥さまが滞りなくなさっていますので心配ございません」と言うので安心してジュリアを落ち着かせることに注力した。……いや、安心してというよりは、見ないようにした。
目の前のジュリアに目を移す。ジュリアは私と同じ年齢だから「妻」より七才上か。
ジュリアは、アレンの「会わない」という言葉を聞いて「嘘よ、嘘よ」と子どものように狼狽えている。
私はため息を堪えて目を伏せ、執務室へと向かう。
「妻」と離婚してジュリアと結婚すれば、私たちは貴族社会の笑い物になるだろう。
美しくて寛容で仕事のできる「妻」を捨て侯爵夫人としての振る舞いもできない平民を娶ったと。
私たちは自分たちさえ良ければ、と「妻」やアレンを犠牲にしてきた。
今になってわかる。どれほど浅はかだったかを……。
私は「妻」とアレンを解放しなければならない……。
最初のコメントを投稿しよう!