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出会い *サフィーア
「貴女を愛することはない」
そう「夫」に言われたのは、一年前の結婚式が終わった後の初夜のことだった。
そして今日。
「ジュリアに子が産まれた」
目の前にいる「夫」から告げられた言葉は私を冷やしていく。
*
私たちの結婚は、まごうことなき政略結婚だ。十六才の私と二十三才の「彼」、家と家との思惑が絡んだものだった。
結婚した翌日、いわゆる蜜月と言われる期間から、私は「夫」に放置された。
彼には結婚する前から恋人がおり、別邸に住まわせていたのだ。
知らなかったのは私だけで、実はそれこそがこの結婚の原因だった。
表向きは「夫」の侯爵家が手がけている事業と、私の父の宮廷での立場が合致した体である。
しかし実は「夫」の父親が、一人息子の自覚を促すために爵位を譲ったものの恋人のためにと結婚しないことに腹を立て、私の実家に多額の援助をすることを条件に整えられた縁談であった。
二十を過ぎて婚約者を作らなかった「彼」に適した年齢の令嬢はすでにおらず、結婚ができる年齢になったばかりの私が選ばれた。……我が家の経済事情とともに、すでに「彼」の社交界での評判が落ちていたことを知らぬ子供だったことも要因の一つであったと思う。
私に与えられたのは侯爵家の体面を整えるための「妻」としての役割と「女主人」としての役割。そしてあわよくば「夫」を本邸に連れ戻すこと。
だが、まだ子供の私にそんな手管はなかった。
まだ十六だった私は、知らない家で知らない人に囲まれ途方に暮れた。
役割を果たせず役に立たないこと、居場所がないことに恐怖した。
*
婚姻誓約書へのサインと簡素な結婚式のみを挙げた私たちは、初夜を最後に顔を合わせることも稀になった。
どうしても外せない仕事や社交以外で別邸から本邸に戻ってこない「夫」を持つ私に、意外にも本邸の使用人たちは親身になって接してくれた。
どうやら「夫」の恋人は平民であり、本邸の者たちからは「当主をたぶらかした下賤の女」とみなされているらしい。
聞けば「夫」がまだパブリック・スクールに通っていた頃からの仲だという。ウブな貴族の令息であった「夫」は街の娘にのめり込み、義父が注意すればするほど頑なになっていったそうだ。
そんなこともあり世話をする対象のいない本邸の使用人たちは、なにもわからない私に侯爵夫人としての教育を丁寧に施してくれ、大切に扱ってくれた。
私も知識を得ることに喜びを覚えたため、数か月経つ頃には家内のことや領地に関して差配することもできるようになった。
必死に、でもある意味のんびりと平和に過ごしていたのだ。
今日までは。
*
「ジュリアに子が産まれた。」
ジュリアとは「夫」の恋人の名。
「ジュリアの産後の肥立が悪く、少しノイローゼ気味になっていて子育てをするのは無理だと医者に言われた。そこで、貴女に育ててもらいたい」
一気に話す「夫」は私の目を見ることはない。長いまつ毛を伏せ、視線を逸らしている。私は、その端正な顔をぼんやりと見ていた。
「我が侯爵家の跡取りとして「妻」である貴女が育てるのが妥当であろうと思う」
「妻」、ね。私はふっと小さく息を吐いた。
「承知いたしました」
あの夜と同じように返事をする。
私が頭を下げている間に、「夫」は「そうか」と言って部屋を出て行った。
……あの人、私の顔も知らないんじゃないかしら。
「アニス」
「はい」
私は後ろに控えている侍女長に声をかけた。アニスの表情はいつも通りだけれど蒼白で、体の前で組んだ手は力が入っているのか白くなり少し震えている。
アニスとは、私がこの家に嫁いでから一番長く同じ時間を過ごしている。たった十六才で侯爵夫人となった私に色々と教えてくれた。最初は厳しくて夜に一人で泣いたりしたけれど、きちんとできた時は褒めてくれて美味しいケーキを準備してくれた、母みたいな人だ。
アニスは「夫」が子供の頃から勤めていて、「夫」にとっても母親のような存在であったらしい。だからこそ普段は感情を表に出さない彼女も俯き手を固く握りしめているのだろう。
「アニス、子ども部屋を用意しなくてはね。ベビーベッドと……おむつ? あとはなにが必要かしら」
「……奥さま」
「そうそう、子どもが産まれたメイドがいたわね。乳母になってくれないかしらね」
「奥さま」
私がアニスに微笑みかけると、アニスは俯くように頭を下げた。
「……すぐに手配をいたします」
だって、仕方がないじゃない。「夫」は恋人に誠実であろうとして、私との間に後継を作ろうとはしない。
私もまた、彼に触れられたいとは思わないけれど。
*
子ども部屋が用意できた頃、赤ちゃんがやってきた。
私が住む本邸のエントランスで別邸の侍女からアニスに受け渡され、子ども部屋で待っていた私の元に連れてこられた。
「アレンさまという名前だそうです。抱いてみられますか?」
「大丈夫かしら」
「大丈夫ですよ、ほら頭をここへ。それからこちらの手を背中に添えて」
初めて抱っこした赤ちゃんはずっしりと重く、温かくほわほわといい香りがする。柔らかく艶のある黒い髪の毛がサラサラしている。
「泣きませんね」
「あ、目を開けましたよ」
その赤ちゃんの瞳は、綺麗な水色だった。
よかった。
「夫」とは違う瞳の色だわ。
ジュリアという名の女性と同じ色なのかもしれないけれど、知らないからそれはいい。髪の毛は「夫」と同じ黒だけれど、彼と同じ焦茶の瞳で見られるのは、なんとなく、イヤだ。
抱っこに慣れて、右手で小さな手をちょんちょんとつつくと、ぎゅっと握られた。私の心臓もぎゅっとなる。
じわじわと暖かいものが胸の中に広がる。これは母性というものだろうか?
ああ、と思う。
ああ大丈夫。私はこの子を愛せる。
きっとこの子が、私がこの家で生きる意味となるのだと確信する。
私はそっと、自分の頬をアレンの頭に寄せた。
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