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廃校
次の日。
朝から生憎の雨だ。サァーと細い糸を垂らしたように降る雨は、庭の花や草木を優しく撫でながら水滴となって落ちていく。雨を吸い込んだ土は湿気を帯びどこか懐かしい匂いがする。
私は縁側でアメの背中を撫でながら、朝ご飯が出来るのを待っていた。
「今日皆でお母さんの学校に行こうと思ってたけど、無理かなぁ。アメは濡れるの嫌でしょ?」
出来ればアメ達と一緒に学校に行きたいと思っていた。
目をつぶり気持ち良さそうに身を任せていたアメは「にゃ」と短く鳴く。
暫くすると良い匂いが漂ってきた。朝ご飯が出来たようだ。
アメを抱き居間へ行くと、テーブルには二人分の朝ご飯が用意されていた。
(そっか。俊樹叔父さんは自分の部屋で食べるんだっけ)
ここに来てから、迎えに来てくれた時にしか会っていないが、少し得体の知れない怖い人だと思っているので、顔を合わさないならそれでいい。
祖母と朝ご飯を食べた後、今日の分の宿題をやり終える。
「んだな、宿題も終わったみてぇだし行ぐべがね」
と、手に小さな風呂敷を持った祖母は言った。
「お婆ちゃんそれなぁに?」
「これかい。んだ。こいづはお供え物だよ。ついでにお参りもしようと思ってな」
お参り?誰の?
口から出そうになる言葉をゴクンと飲み込む。
「ねぇお婆ちゃん。アメ達も連れてっちゃ駄目?」
「アメ達?」
「うん。佐藤さんとビッグとコッコとピヨ」
「ははは!鶏にまで名前をつけたのが?」
「うん」
「アメは抱っこしていけばいんだげども、佐藤さんは無理だべな。あの犬ほんとに面倒臭がりで臆病だしよ。こんたな雨の中さついてくるわげねぇべ。残りの鶏さは、どうだべねぇ」
「大丈夫よ。昨日神社に行った時もちゃんとついてきたし」
「んだな。まぁいいべ。好きにしな」
「うん!」
急いで玄関で靴を履いた私は、外に向かって叫んだ。
「佐藤さん!ビッグ!コッコ!ピヨ!お出かけするよ!!」
私は耳を澄ませ、雨音に混じる動物達の気配を探った。軒先から落ちる雨垂れが小さな雑音となっていたが、次第に「コッコッコッコッ」という、かすかな鶏たちの鳴き声が聞こえてきた。目を向けると、ビッグを先頭に三羽の鶏が玄関の方へとやって来る。
「こりゃ驚いた」と祖母が目を丸くする。
「ふふ。これからお出かけするんだけど、一緒に行く?」
私は少し笑いながら鶏達に声をかける。三羽は一心に土をついばんでいたが、ビッグがふいに大きく羽を広げ、バサバサと音を立てて羽ばたくと、三羽は来た道を戻っていった。
「ふん、行かないのか。まぁ、いいわ」
祖母は苦笑して鶏達の背中を見送る。
私は声を張り上げた。
「佐藤さん! 佐藤さん!」
佐藤さんは、納屋の中のトラクターの影から、顔だけ出してこちらをじっと見ていた。少し首をかしげて、こちらの様子を窺っている。
「佐藤さんは行く?」
私は納屋に向かって問いかける。
佐藤さんはさらに首を大きく傾げ、どうしようか考えているようだった。雨が少し強くなり、庭のあちらこちらで雨垂れの音が大きくなってきた。
途端に、佐藤さんは首を縮め納屋の奥に引っ込んでしまった。雨が嫌いなのだろか。
「やっぱり駄目か」
佐藤さんとビッグ達を連れて行くのを諦めた私は、腕とズボンの裾を折った大人用のカッパを着ると、懐にアメを包み込むようにして抱き祖母と家を出た。
空から降る雨は容赦なく道のあちこちに水溜まりを作り出していく。なるべく水溜まりに入らないよう視線を落とし歩く。
隣で歩く祖母は、私と歩調を合わせゆっくりと歩いてる。時折、風が吹きカッパの裾を揺らし、私の頬に冷たい雨粒が吹き付ける。
懐の中でじっとしているアメは「にゃ」と小さく鳴きモゾモゾと体を動かす。
「お母さんもこの道を通って学校に行っていたのかな」
母親の足跡を辿っている様な感じがして、妙な感覚になる。
隣で歩く祖母はどう感じているのだろう。私と同じように感じているだろうか。
道はやがて緩やかな坂に差し掛かる。坂を登りきると二階建ての古びた木造の建物が見えてきた。
ーー小学校だ。
母親が通った小学校。今はもう誰も通わなくなった廃校だ。
「着いたど」
祖母は静かに言った。
私は深く息を吸い雨の匂いと湿った草の香りを感じながら目の前に広がる景色を見つめた。
誰も訪れない校舎は、時間に取り残されたかのようにひっそりと佇んでいる。
校庭には揺れるのを忘れたブランコと錆び付いた鉄棒があるだけ。私の学校にある回転シーソー何てものは何処にもない。
残念に思いながら祖母の後について行く。
祖母は迷う事なく校舎の正面玄関から校内に入る。
薄暗くヒンヤリとした空気が漂う校内は、カビと湿気の匂いがした。
上履きやスリッパなどは勿論なく、そのまま土足であがり歩いて行く。歩く度にギ、ギ、と鳴る木の床。窓枠も教室に入る引き戸も全て木で出来ていて、ガラスが割れ取れそうになっていたり、天井は穴が開き今にも何かが落ちてきそうだ。
お化け屋敷に入ったかのように不気味な感じがする。
思わず、足がすくみ歩くのを止めてしまいそうになるが、平然と歩いていく祖母に何とかついて行く。
祖母は突きあたりまで廊下を歩くと、階段を上り始めた。
割れた窓から入ってきたのか、至る所に葉っぱが散らばっている。ガラス片もあるので気を抜けない。
「お婆ちゃん何処に行くの?」
心細くなってきた私は祖母に聞いた。
「教室だ」
「お母さんの?」
「んだ」
お供え物をするという事は祖母はいつもここに来てるのだろうか。
こんな寂しくて恐ろしげな場所に。
そもそも何に対してお供え物をするのか。
ここに来るまでは、母親が通った学校だと思い期待を胸に歩いてきたが、今はその気持ちは薄らいでいる。
懐にいるアメを抱く腕に力が入る。
ふと、祖母の足が止まった。
「ここが、お母さんが通っていた教室だべ」
祖母が静かに呟く。私の目の前には「四年一組」と記された古びた木の札がぶら下がっていた。
(私と同じ四年生の時の教室・・)
外から差し込む微かな光が、薄暗い教室の中をわずかに照らしている。教室はひっそりとしていて、かつては賑やかだったはずの場所が今は静寂に包まれていた。机が二つ、そして床に転がった椅子が三つ。その周りには朽ちた木片や板が無造作に散らばっている。壁紙は剥がれ、雨漏りのせいか、天井が落ちている所もあり時の流れを感じさせる風景だった。
祖母は倒れた椅子をそっと直し、私に向かって言った。
「お供えしてくるから、ここに座って待ってて。」
「え?私も一緒に行くよ。」
「すぐに戻ってくるから。ちょっとだけ待っててくれないかい?」
「なんで一緒に行っちゃダメなの?」
こんな寂しい所に一人残るなんて冗談じゃない。
「そこは一人しか入れないんだよ。心配いらないべ。す〜ぐ終わるから。アメと一緒に待ってて」
「・・うん」
一人しか入れない場所にお供えをするなんて、どんな場所なんだろう。
釈然としないまま少し傾いた椅子に腰を下ろす。おしりに伝わる冷たさが妙に気持ち悪くて、ぞくっとする感覚が走る。祖母はそんな私に優しく微笑みかけると、静かに教室を後にした。
教室に残された私は、アメをぎゅっと抱きしめ、祖母が戻ってくるのをじっと待った。
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