初音 新造に昇格し初めての水揚げに緊張する

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引込新造になると生活が一変する。 それまで茶碗半分ほどのご飯と漬物だけの食事からだし巻き卵焼きや焼き魚など座敷でお客に出すような料理になる。 禿の時には朝餉が済めば掃除や姐女郎の世話が主な仕事であったが、新造になればすぐに稽古ごとである。 三味線、習字に琴、俳句、和歌、生花、茶道に将棋、囲碁まで一日中休む暇すらないほどであった。 習字は草書、行書、楷書の三つは必須で必ず覚えなければならないと言われて初音は思わず「うわあ。。」と声を上げてしまう。 覚悟はしていたつもりであったが、ここまで覚えなくてはならない事がたくさんあったとは。 初音が最も得意としたのは三味線で、その上達は目を見張るものがあった。 玉屋に来てわずか半年ほどで夜見世の始まりを告げる清掻(すががき)を務めるほどにまでなったのだ。 だが、問題はそこからであった。 間もなく十四歳になる初音を何より不安にさせたのは水揚げである。 水揚げとは初体験の事で、この儀式終えると一人前の遊女としてデビュー期間となる「突出し」になり、初めて客を取る十年の年季の始まりである。 水揚げは見世に馴染みの深い四十代くらいの年配客に頼むことが多かった。 いきなり手荒に扱われて男性不信にならないように見世も慎重になったのだ。 お里は初音の水揚げ相手選びに難航した。 最初の相手があまり顔がいいと次回以降が厳しくなる。 むしろブ男の方がいいとすら言われている。 「花香、初音の水揚げの相手なんだけど、誰かいい人はいないかい?」 お里に問いかけられて、花香もしばらく考えた。 穏やかで乱暴な事をしない四十代くらいの男性となると花香の馴染みの中でも限られてくる。 そんな中、一人の人物が花香の頭に浮かび上がる。 「わっちのお馴染みさんの中でありんすなら、笹垣屋の番頭さんではどうでありんしょう」 花香の人選にお里もポンっと手を叩く。 「おお、笹垣屋さんなら悪くないね。うちの上客の一人だし、禿や新造たちにも評判がいい」 お里はさっそく見世の妓夫を使いに出して笹屋にこの事を伝えた。 笹垣屋は話を聞いて困惑の表情を浮かべた。 男の側からしても四十代で十四歳の少女を相手にするのである。 躊躇してしまうのが当然であった。 たが、日頃からの付き合いであるお里と花香の頼みとあっては断れずに引き受ける事となった。 水揚げの際には空き部屋が一つ割り当てられる事になり、以降その部屋が初音の部屋となる。 お客を取り、独り立ちする部屋持ちに出世するからだ。 こうして部屋に用意されたのは金糸で鶴と亀の刺繍がされ、最高級の綿が詰められた掛け布団で、これだけでも二十両〔約二百万円〕は下らない値段であった。 三段重ねにした敷布団や寝巻きも含めれば五十両〔五百万円〕近くにはなるだろう。 これは水揚げをする笹垣屋の番頭が全て寝具一式を揃えて負担する。 頼まれた事とは言え、かなりの出費である。 水揚げ当日、笹垣屋が来るのを待つ初音は緊張で気分が悪くなってきた。
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