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「お清さん、緊張で気分が悪くなってきました。ちょっと厠に。。」
「さっきから何回厠に行っているんだい。しっかりおし。落ち着きな」
「は、はい」
遣手婆のお清に声を掛けられても空返事をするだけで、心ここにあらずであった。
笹垣屋の番頭が見世に来て部屋に通されると、しばらくは料理を食べながらの談笑が続いたが、初音は緊張のあまり食事がほとんど喉を通らなかった。
そして拍子木の音と共に引け四つ〔夜の十二時〕となり、床入りの時間となった。
「さて、初音が無事に水揚げを終わらせてくれるといいけどね」
お清がそう言い終わるか終わらないかの時に部屋から「ぐわあ」という男の悲鳴声が聞こえた。
「何の声? まさか。。」
驚いたお清がすぐに初音たちの部屋に向かうと初音が申し訳なさげな顔で布団の上で正座をし、笹垣屋の番頭が鼻血を出して倒れていた。
まさか初音が何かやらかしたのでは? というお清の嫌な予感は見事に的中した。
「初音、何やらかしたんだい?」
「いえ。。その。。いきなり顔が目の前にあったので反射的に頭を上げたら。。その。。」
「つまり頭突きを喰らわしたというわけね」
お清がそう言うと、番頭はよろよろと立ち上がって文句をつける。
「おい、この始末どうしてくれるんだ」
「申し訳ない事をしました。この状況なので水揚げは無理でございます。今夜はおやすみになられて構いませんので、明日の朝お引き取り下さいまし」
「こっちはお前さんたちに頼まれて揚代含めて五十両近く払ってるんだぞ」
「それは重々承知しておりますが、何があろうとも揚代はお支払い頂くのがこの吉原の掟でございます」
初音は松平屋敷での出来事がフラッシュバックしてその恐怖から「いやあ!」と番頭に頭突きを喰らわせてしまったのだ。
結局、怒った笹垣屋の番頭にお里とお清に花香も加わって謝罪し、何とか収まったものの、初音はとんでもない事をしたと後悔の念にかられた。
こちらから頭を下げて頼んで、五十両もの大金を払わせておいて頭突きだけ喰らってのお帰りである。
笹屋の番頭がこの見世に来ることはもうないであろう。
玉屋は大口の顧客を一人失う事となってしまった。
「せっかく花香姐さんがここで働かせてくれたのに、わっちは下女に逆戻りでありんすね」
だが、この件で初音が叱られる事はなかった。
逆に花香から謝罪されたのだ。
「無理もありんせん。初音はつい先日恐ろしい目に遭ったばかりで男はんが怖いんでありんしょう。わっちらが気が付かんですまない事をしたでありんす」
「花香姐さん。。すみません、悪いのはわっちの方なのに」
初音はお里とお清にも散々頭を下げて謝ったが、二人とも苦笑いを浮かべるだけで気にするなと言ってくれた。
かずさ屋なら折檻が二、三日。いや、もっと続くかも知れないほどの事をしでかしたのに。
見世の人たちの心遣いに初音は申し訳ない事をしたと思うのだが、やはり恐怖はすぐに拭い去れず初音の水揚げは当面棚上げとなった。
※水揚げと聞いて「お!」となった読者の皆様、期待させてこの展開。すみませんでした😅
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