初音 遊女から芸者へ転身し 吉原は火事に見舞われる

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一七二七年も年末に差し掛かった十二月。吉原に火事が起きた。 火元は吉原の中心に近い角町(すみちょう)で火をつけたのは鶴亀楼という小見世の志摩太夫であった。 志摩の働く鶴亀楼の楼主は売り上げを伸ばすために紋日(もんび)を他の見世よりも多く設定していた。 紋日とは吉原のメイン行事の一つで、この日は遊女の揚代や食事、宴会代、祝儀などを通常の倍払わなければならないという日である。 遊女は豪華な衣装を身に纏うので、遊廓内はいつもにまして華やかだった。 一年で最初の紋日にあたるのが一月二日。 それ以降は見世によって設定日が違うが、主に三月三日、五月五日、七月七日、八月十五日、九月九日といった日なのだが、鶴亀楼はこの紋日を年間で百日近く設定していて、終わったと思ったらまた紋日? というほどの日数であった。 この紋日は、遊女も馴染み客に来てもらおうと必死だった。 何しろ紋日に客が来なかった時は、倍に設定された金額を遊女が負担しなければならなかったからだ。 ちなみに玉屋はお里が楼主になってからこの紋日を年に十日ほどしか設置していない。 理由はお客だってそんなに紋日を何日も作られたら出費が重なって来られなくなってしまうからだ。 それならば紋日は最低限のみに設定して通常料金でリピートしてもらった方がいいという考えからであった。 この紋日に遊女の一日を買切る(仕舞)客もいた。 さらに仕舞をつけて当日来ない客は通とされ、遊女はお金をもらえるし見世にも出なくていいといういいことづくめで、現代で言う有給休暇のようなものだった。 裕福なひいき客の多い花香はこの仕舞により紋日にお客を相手にする事はほぼ無かった。 かつての朝霧も身請け先となった上州屋の大旦那が必ず紋日に仕舞してくれて身体を休める事が出来た。 それでいて売り上げは倍なのだから、他の遊女たちから羨望の眼差しで見られるのも当然であろう。 ただし、これは朝霧や花香のような吉原でも一、二を争うクラスの太夫であって、下級遊女にそんな夢みたいな事はまずあり得なかった。 逆に紋日に行くよと口約束だけして当日来ない客も居たので、遊女たちはそんな客には事前に手紙を書いて送ったり大変であったという。 話はそれたが、鶴亀楼の楼主はこの点で完全に経営に失敗していた。 お里の考えた通り、売り上げを伸ばすために紋日をやたら増やしたところで、お客の方はそんなに通えるお金が持つはずがなく、紋日を避ける客が続出して客足が遠のいていき、結果は逆に売り上げが減る状況となっていったのだ。 売り上げが思ったように上がらない楼主は、見せしめのため見世のお職であった志摩にでっちあげの理由をつけて折檻した。 後日、これを知った志摩は今まで苦労して一所懸命働いていた自分を含めた見世の遊女たちがあまりにも惨めで、人生そのものを否定されたような怒りと失望から放火に至ったと言う。 火は角町(すみちょう)から江戸町二丁目に広がっていき、玉屋の付近もかなりの被害が出た。 玉屋は辛うじて被災を免れたものの、他の被災した見世の遊女や使用人たちの収容のために見世を解放したため、商売どころでは無くなってしまった。 放火は大罪である。 志摩は面番所の役人に捕えられたが、「ざまあみろ!」と大声で叫び声を上げながら連行されていった。 その時、一瞬だが花香と目が合った志摩は涙を流していたという。 それは悔しさからか、あんたのようになりたかったという感情からかは花香にはわからなかったが、その無念は胸に刻み込んだ。 「一歩違えてたらわっちとあんたは立場が逆だったかも知れんせん」 志摩はその後、南町奉行所に引き渡された。 通常であれば放火は火あぶりの刑であるが、大岡越前は志摩の置かれた境遇や見世の待遇の悪さから情状酌量し、江戸十里四方払とした。 そして劣悪な環境と遊女に対する仕打ちで放火の原因を作った鶴亀楼の楼主を捕らえて島流しとしたのだ。 吉原では数年おきに火事が起きており、歴史上二十七回。そのうち全焼の火事が十九回もあった。 そのほとんどが遊女による放火であった。 同じ遊郭でも京都の島原は過失による火事が一回起きたのみで放火は一切なかったという。 この火事は悪辣な環境で酷使されていた遊女たちの怒りの炎だったのかもしれない。
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