6.記憶喪失の都市と、「眠り男」の噂

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 十年前、とある一人の人間が自主的に眠りについた。  理由は判らない。ずっと眠りっぱなしである。  その人物は、特別に生命維持装置だの付けている訳でない。むしろ「仮死」に近い状態で、「生きているのが不思議」な状態のまま、老いもせず延々と眠っているのだという。  その人物の正体は、噂はあっても誰もはっきりしたことは知らなかった。噂にしても、いつの間にか立ち消えてしまうのである。  ただ、若い男である、ということだけが不確かな噂の中でも一致していた。  その説については、空間がどうの、という以前に非論理的であるとか、非科学的である、とかいろいろ言われてきた。だが、目の前にある景色自体に現実味が失われた時には、どのようなことでも説得力のあるものが勝ちである。  一番大声で叫んだ者が勝つのだ。  「大声」とまではいかないにせよ、ある種の声が都市を埋め尽くしたと見られる。噂の出所は不明である。  噂が出始めた頃、もと「市役所」だった行政局に「公安部」が設けられた。  「公安部」はその時から三人の「長官」が仕切っている。  それ自体はさほど大きな組織ではない。三人が三人、それぞれの役割をもっているが、その三人は立場の上では同等だった。  三人の正体は判らない。  判っているのは、このあふれる情報の中から、一つの仮説をとてつもなく大声、もしくはクリアな声で広めてしまった者達ということ。  別に一人の男が眠りについたこと自体、一つの都市にとっては大した問題ではないのかもしれない。常識で考えればそうだ。彼はただ眠り、都市はただ閉じただけなのかもしれない。  だが、その男が空間を自分の眠りに巻き込んだ、としたら話は別である。  東風は時々思うことがある。  ――「眠り男」は、空間を閉じるために眠ったのかもしれない。  あくまで仮説である。  だが十年前にあれこれ取りざたされた説とて所詮仮説なのだ。  どんな信憑性のある説であっても、それが事実と確かめられなければ所詮仮説であり、どれだけ突拍子のない説であっても、実証されればそれが真実となる。  だが確かなことは誰一人知らない。当の本人以外は。  だが因果関係はともかく、「眠り男」が閉じた本人である(と最も原因である確率が高い)以上、彼を消去する訳にもいかない。  空間を「閉じる」力があるのなら、空間自体を消滅させることもできるかもしれない。  しれないしれないしれない…… 確かなことは何もない。  そして現在、公安部は、かなりの権力が集中している。  何しろ、もともと結構な規模の都市である。  都市というのは、誰かの手によって動くものではない。多くの人間と、大量の物資と、溢れる情報と、たくさんの思惑で一人歩きするものである。  都市は都市として勝手に動けばいい、だが締めるべきところは締めなくてはならない。何故ならそれまでの常識が通用しない部分が多いのだから。  こうして、閉ざされた「都市のため」に「大気条例」が作られ、「空間条例」が作られる。  煙草や排ガスといった大気――― ひいては「空間」を必要以上に汚すものは使用が限定される。  そして「空間」の安定のために、音楽は保護された。数多くあるFM局は、必ず何処かで音楽が鳴っているようにブログラムを組まされた。時には例外もあったが。
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