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しまった、と安岐は思った。気が緩んだか?
煙草を捨てる素振りで振り向くと、確かに人がいた。
背を向け、反対側の橋の欄干から「川」を眺めている。その欄干の上に緑が見えた。
―――花だ。
白い花が目に飛び込んできた。
改めて彼はその人物を観察した。
妙な、バランス―――
大人というには華奢すぎるが、子供の首筋ではない。
少年というには肩の線が細すぎるが、少女というには腰に丸みがない。
長い栗色の髪は無造作な量だけ上げられ、いい加減な位置で止められ、勝手に流れている。
ぴったりした薄手の黒の長袖のニットに包まれた腕は細い。そしてその下のパンツも、またぴったりとした黒。
右手には不似合いなほどの大きな花束。大きすぎて、さげておくのも面倒で欄干の上に乗せているのか? と彼は思った。
花はずいぶんといろいろな種類のものが混ぜられていた。薔薇にかすみ草、桔梗にスイートピーにフリージア、こでまりに百合に果てには菊に梅。
全て白だった。
季節と取り合わせを全く無視したそれは、ただ白という一点だけで共通していた。
だがそれは、黒一色の彼もしくは彼女にはおそろしく映えた。強い光が意志を持ってそこにたむろしているようにも見えた。
細い腕がふわりと動いた。不意にざっ、とその花が飛んだ。
花束はゆっくりと、川に落ち――― やがて立ちのぼる霧につつまれて見えなくなった。
見届けたとばかりに、くるりと彼/彼女が振り向いた。
予想はできたことなのに、安岐はぎくりとする。
瞬き一つしない、形のいい無表情の目。その目が安岐に一瞥を加えると、長い髪を揺らして歩きだそうとするから。
「ちょっと……!」
気がついたら、その細い腕を掴んでいた。彼は自分の行動に驚いた。
「何?」
瞳に光が入る。
低い声。灰色の羽毛がくすぐるような声。そしてこの都市では珍しい、浮遊感のある後ろ上がりの、西のイントネーション。
「あ、―――ごめん。すいません。……え…… と、今、花を」
「君」とも「あなた」とも呼びにくいのか、安岐はしどろもどろになって訊ねる。
「花? ああ、時々そうするんです」
低音の声は、その人物の外見からは予想ができない。「彼」だ、と安岐は半分がっかり、半分ほっとする自分に気付く。
「投げてるんですか?」
豪華な花なのに、もったいない、と思ってしまう自分が哀しい。
「ええまあ。ここに墜ちて沈む人が最近増えてますから」
「ああ」
そう言えば、そうだ。墜ちた人に花を投げるのはよくあることだった。
「知り合いでも?」
「そういうことではないけど……」
「彼」は言い淀んだ。
目を軽く伏せてほんの少し首を傾げる。長い髪が無造作に肩に落ちた。
「でもあまり見たくないものでしょう? 人が落ちていくのは」
「そうですね。結局ここが開かない限り、駄目なんでしょうね」
「そう思いますか?」
「だって、そうでしょう? 開ける方法はあればいいのに」
「本当にそう思います?」
そう言って橋の向こう側を向く。
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