1.早朝の大気

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 しまった、と安岐は思った。気が緩んだか?  煙草を捨てる素振りで振り向くと、確かに人がいた。  背を向け、反対側の橋の欄干から「川」を眺めている。その欄干の上に緑が見えた。  ―――花だ。  白い花が目に飛び込んできた。  改めて彼はその人物を観察した。  妙な、バランス―――  大人というには華奢すぎるが、子供の首筋ではない。  少年というには肩の線が細すぎるが、少女というには腰に丸みがない。  長い栗色の髪は無造作な量だけ上げられ、いい加減な位置で止められ、勝手に流れている。  ぴったりした薄手の黒の長袖のニットに包まれた腕は細い。そしてその下のパンツも、またぴったりとした黒。  右手には不似合いなほどの大きな花束。大きすぎて、さげておくのも面倒で欄干の上に乗せているのか? と彼は思った。  花はずいぶんといろいろな種類のものが混ぜられていた。薔薇にかすみ草、桔梗にスイートピーにフリージア、こでまりに百合に果てには菊に梅。  全て白だった。  季節と取り合わせを全く無視したそれは、ただ白という一点だけで共通していた。  だがそれは、黒一色の彼もしくは彼女にはおそろしく映えた。強い光が意志を持ってそこにたむろしているようにも見えた。  細い腕がふわりと動いた。不意にざっ、とその花が飛んだ。  花束はゆっくりと、川に落ち――― やがて立ちのぼる霧につつまれて見えなくなった。  見届けたとばかりに、くるりと彼/彼女が振り向いた。  予想はできたことなのに、安岐はぎくりとする。  瞬き一つしない、形のいい無表情の目。その目が安岐に一瞥を加えると、長い髪を揺らして歩きだそうとするから。 「ちょっと……!」  気がついたら、その細い腕を掴んでいた。彼は自分の行動に驚いた。 「何?」  瞳に光が入る。  低い声。灰色の羽毛がくすぐるような声。そしてこの都市では珍しい、浮遊感のある後ろ上がりの、西のイントネーション。 「あ、―――ごめん。すいません。……え…… と、今、花を」  「君」とも「あなた」とも呼びにくいのか、安岐はしどろもどろになって訊ねる。 「花? ああ、時々そうするんです」  低音の声は、その人物の外見からは予想ができない。「彼」だ、と安岐は半分がっかり、半分ほっとする自分に気付く。 「投げてるんですか?」  豪華な花なのに、もったいない、と思ってしまう自分が哀しい。 「ええまあ。ここに墜ちて沈む人が最近増えてますから」 「ああ」  そう言えば、そうだ。墜ちた人に花を投げるのはよくあることだった。 「知り合いでも?」 「そういうことではないけど……」  「彼」は言い淀んだ。  目を軽く伏せてほんの少し首を傾げる。長い髪が無造作に肩に落ちた。 「でもあまり見たくないものでしょう? 人が落ちていくのは」 「そうですね。結局ここが開かない限り、駄目なんでしょうね」 「そう思いますか?」 「だって、そうでしょう? 開ける方法はあればいいのに」 「本当にそう思います?」  そう言って橋の向こう側を向く。
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