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「ここだよ」
いつの間にか物思いに耽っていたのだろう。声をかけられ、はっと顔を上げた時には、真新しいクリニックの前に来ていた。一見すると普通の家のように見える建物だが、目に痛いほどの白と、入口に立てかけられた看板がここはクリニックだと伝えている。
蒼真の後に続いて中に入ると、ほんのり甘い香りが漂ってきて、ゆったりとしたオルゴールのメロディが聞こえてきた。内装はどこの病院とも変わらないが、その二つが俺に郷愁に似た感情を抱かせ、無意識のうちに左目から涙を溢していた。
「この曲……」
「ショパンの『ノクターン』ですよ」
蒼真とは別の低く落ち着いた声に、なぜか鼓動が乱れた。声のした方を仰ぎ見た俺は、軽く息を飲む。
男の顔が直視できないほど無惨に崩れていたからだ。いや、崩れるというのも正しくはない。ただの赤い肉塊と化していると表した方がより適切だ。俺が小さく悲鳴を上げかけた瞬間、男の顔はテレビの砂嵐のようなもので覆われ、見えなくなった。
俺の中で男の顔がどうなっているのか確かめたい気持ちと、何も見なかったふりをした方がいいという気持ちがせめぎ合い、束の間、身動きが取れなくなった。男は俺の方へ手を伸ばしかけたが、それを制するように蒼真の声が割って入り、手を引っ込めた。
「金浦先生、今日はよろしくお願いします」
「君は……」
金浦はなぜか蒼真を見て、驚いたような声を上げる。
「どうしたんですか?幽霊にでも会ったような顔をされて」
「いや……」
金浦がぽつりとそういうことか、と呟いた気がしたが、俺には意味が掴めなかった。
「今日は他の患者の診察は入れていません。ついて来て下さい」
金浦について行きながらクリニックの中を見渡すと、受付どころか医師の姿も見当たらない。診察を入れていないというよりは、休診日なのかもしれない。もしくは、俺のためにわざわざ休診にしたのだろうか。
そんなはずがないなと自分の考えを否定しかけた時には、クリニックの一番奥の一室に案内されていた。その部屋は診察室にあるようなデスクがなく、丸椅子とベッドが一台、壁際に設置されているだけで他には何もない。
てっきり机に向かい合って座り、話をするのだろうと想像していた俺は、戸惑いの目を金浦の顔の辺りに向ける。時折顔が見えなくなるだけの蒼真とは違い、金浦の顔はずっと砂嵐で隠れたままだ。
「高塚さん、どうぞベッドに横になられて下さい」
斜め後ろに付き添っていた蒼真に目を向けると、頷いて同じようにベッドを勧めてくる。俺は何をされるか分からず、不安な気持ちがあったが、蒼真が止めないならと大人しく横たわる。
「葛城さんは部屋の外へ出られて下さい」
「はい」
素直に従って出て行こうとする後ろ姿を引き止めようとしたが、そうするのは子供じみていると思い、一度深く息を吸って気持ちを鎮めた。
「夕晴さん。今この時間だけそう呼ばせて下さい。ゆっくり目を閉じて、俺の言葉に従ってイメージして……」
金浦の言葉通りに過去の情景を思い出していくうち、いつしか俺の意識は現実から遠ざかっていった。
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