2 聞こえる

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2 聞こえる

 意識が浮上しかけている最中、右耳の下の方であの音が聞こえた。一定のリズムを刻みながら、重い物体が金属の上を走り去っていく、あの音。  俺は吐き気を覚え、堪えきれずに嘔吐する。胃の内容物を全て吐き出すと、今度は全身が震え始めた。寒さではなく恐怖のためだと理解するのに数秒を要し、薄いTシャツを手繰り寄せながら蹲る。  そのまま5分か10分か、もっと長い間そうしていた後で、少しばかり落ち着きを取り戻してきて辺りを見回す。  そこは、黄色と黒色が混在した部屋だった。天井と床は黄色、壁はぐるりと黒く塗りつぶされていて、壁の内側から発光しているのか目がちかちかしてくる。  そして何より、絶えず聞こえるあの音。集中して聞くとまた具合が悪くなりそうで意識から逸らしているが、それでも遠ざかることなく聞こえ続けているのは嫌でも分かる。  言葉を思い浮かべるだけでも不快だが、通常は電車の音は近づいたり遠ざかったりするものだ。  誰かの嫌がらせで、どこかから録音したものを流し続けない限り。  自分で思いついたことにはっとして、周辺をくまなく確かめようとした時だった。 「あれ……」  俺は違和感を覚えて、自分が横たわっていた場所を見る。ほんの数秒前に吐いたはずなのに、そこには何も残っていなかった。自分の目が信じられなくて匂いも嗅いでみるが、それらしい匂いはない。  俺はここが異常な空間だと気づき始めて、この部屋に来る前のことを思い出そうとする。  すると。 「夕晴」 「ゆうせい」 「ユウセイ」 「ゆウせイ」  幾度も自分を呼ぶ声が反響した。大小様々な、一人の人間のものとは思えない声が繰り返し自分の名前を呼んできて、悪寒が走る。 「やめろ!」  発狂した途端、ぴたりと声は止み、またあの音だけが聞こえる静寂が訪れた。  俺は荒く息をつき、唯一ある扉に目を止める。こんな場所にはいたくないと思うのに、扉が恐ろしく思えて開けに行くことを躊躇う。  そうこうしている間に、扉の向こう側からオルゴールの音が微かに聞こえてきた。 「ノクターン……」  浮かんだタイトルを口にした途端、扉の鍵が外れる音がして、扉が薄く開く。差し込んだ眩い光の中、誰かが立っていた。  顔に包帯を巻いた、優しい目をした男。 「金浦さん?」  顔も見えたことがないのに、その名前が浮かんだ。すると金浦は悲しそうに目を細めた。 「え……」  一つ瞬きをした瞬間に、その姿は蒼真のものに変わった。 「そ、うま……?」  名前を呟くと、蒼真は手を差し伸べてきて。その手を取ろうと俺も手を伸ばしかけた時だった。 「……い、夕晴!」  肩を揺さぶられ、はっと目を覚ますと、蒼真が血相を変えて俺を見ていた。 「蒼真?どうしたの?」 「……っ、金浦先生、俺たちはこれで」  壁際に立って様子を見ていた金浦にそう吐き捨てるように告げ、俺の腕を強く掴み、蒼真は急いで診察室を出て行こうとする。状況は掴めないが、珍しく取り乱している蒼真に従った方がいいだろう。  金浦に会釈してその場を後にしようとした時、背後から声が飛んできた。 「高塚さん、お帰りは気を付けて」  振り返った時に一瞬だけ見えた金浦は、やはり砂嵐で隠れていて、包帯をしているかどうかは分からなかった。  クリニックを出ても尚、蒼真は無言だった。そのうえ、何かに追われているように時折周囲を見ながら、足早に歩いている。  いつの間にか辺りは薄暗くなってきていた。宵闇に包まれていく街並のそこかしこから誰かが俺を呼んでいるようで、少し怖い。 「ユウセイ」 「ゆうせい」 「夕せい」 「夕晴」  夢で聞いた声か、あるいは今聞こえている声か。  俺は両耳を塞ぎたくなり、蒼真の手を振り解く。その時、ちょうど踏切の近くに来ていて、遮断機が降りてこようとしていた。 「あっ、だめよ!ひろくん!」  女のその声が聞こえた次の瞬間、背中に誰かがぶつかり、線路の方へ転んでしまう。俺の背中にぶつかった子供は、幸い後ろに尻餅をついたらしく、こちら側には来ていない。  ほっとしたのも束の間、遮断機が降り切ってしまったことに気づき、慌てて元の場所に戻ろうとした。 「……っ」  運悪く転んだ拍子に足を挫いてしまったらしい。足を庇いながらもなんとか移動しようとして、ふと蒼真の方を見る。  一瞬だけ見えたその目に、背筋がぞくりとした。でもそれがなぜか分かる前に、また蒼真の顔は見えなくなった。 「……?」 「あなた、早くこちらに!」  子供の母親らしき女に手を伸ばされ、掴みながら線路の外に戻った瞬間、すぐ真後ろで電車が走り去った。 「夕晴!」  蒼真が走り寄ってきて、俺を抱き締める。俺もその背中に手を回そうとしたが、思い直して手を下ろす。未だ電車の走行音が木霊する中、またどこからかオルゴールの音色が聞こえた気がした。
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